記事を書く習慣をつけるために、最初の三日間は長文を書いたけれども、やはり、ブログ記事は、まとまった書籍とは違った試行錯誤がある。

私のような、文化的なことに焦点を当てて書く人間の場合、専門性があったほうがよいと考えている。
それと同時に『私にしか書くことができない記事』という独創性もあったほうがいい。
しかし、ブログ記事では、専門性を求めるあまりに、説明過剰なものを書くわけにはいかない。

良くも悪くも、インターネットの記事を読む読者がどのような方々なのか、ということは、予想しにくい。想定読者を想定することができないのだ。

ニーチェは、大衆向けの書物は悪臭を放つ、と言った。
ニーチェが生きた時代よりも情報が氾濫している現代のインターネットの海は、とらえどころがない。ウッカリしていると、大衆向けの文章と専門性のある文章を見分けるための観察眼さえも、曇ってしまいそうになる。ウィキペディアにさえも、名も知らないような誰かの主観が入り込んでいるのだ。

そのような電子的な文章の中でも、私の文章から、少しでも思想系の文章を読む読解力を伸ばしたい、と思ってくださる読者がいるならば、私にとっては幸甚の至りである。もちろん「私が言うことがすべて正しい」などとは思わないけれども。
反芸術家というのは「日記ブログでいいだろ」などと、自分を納得させることができないたちなのだ。

あ。また長文となってしまった。今回は、もっと短くまとめるつもりだったのに。
最後に『文録具』と書いて『ブログ』と読ませるのは、私の思いつきである、ということを添えておく。
(令和三年八月三日)