親愛なるアルトーさんへ アフタートークのアフター。 | 映画監督・富田真人のブログ

映画監督・富田真人のブログ

舞台
2002年「死ぬる華」
2015年「宇宙ごっこ」
2016年「人でなしの恋」
2017年「#三島由紀夫」
2018年「詩の朗読会」

監督作
2020年「the Body」
2023年「不在という存在」





2016年6月25日 CORVUSのオイリュトミー仙台公演「親愛なるアルトーさんへ」に参加した。ゼロポイントとしては制作協力、富田真人としてはアフタートークに出演させて頂いたが、参加と書いたのはそれとは別の理由である。

オイリュトミー公演は幾度か体験しており、朗唱として舞台上で創る側として携わる事もあった。が、CORVUSとの個人的な関わりや、オイリュトミーそのもの、に関しては割愛する。その事が意味ある言葉にはならないと思うからだ。物事を見るとき、思考の、或いはロジックの拠り所として、解りやすいカテゴライズを用いたパラダイムを展開しがちだが、私はあまり意味を感じない。舞踊界の中で、とか、オイリュトミーとしては、パフォーミングアーツとしては、これまでの彼らと比べて、などのスケールで論ずる事は内輪的には意味を為すだろうが、私自身が彼らから受け取り、体験した出来事に反応するには、余りに純粋さに欠ける。

ここに書くことは、彼らが創り出した、産み出した世界に対しての反応であり、その世界で生きる事を私自身が意識化することである。その意味で、私は彼らの世界を共に創ったのであり、こうして意識の光を当てることで初めて消化し排泄するのだ。


言葉、とは何か。
舞台上でそれが発される時、それが私に聴こえてきた時、2つの現象が起きている。1つは「響いている」という事。空気が揺れ、鼓膜を叩き、時には臓腑を揺らしている。揺れた私の臓腑は、四肢を所々揺らす。揺れて揺れて、発されれば発されただけ、揺れる。響きは物質という物質に伝播して空間にストレージされていく。いや、変容させていく。響きは意味よりも手前にあるようで、しかし正しい意味を必ず内包している。意味の形に空間が彫刻され、変容のエビデンスのように新しい世界が現れる。歴史が空間の中に積み重ねられていくように、彼らの発声と動きが同じ重量で、しかし違う仕方で世界を変容させていく。世界は間違いなく変わる。数字を発声するだけで、その数字は世界に刻印され、もはやドメスティックな私達の空間をそこに現す。これは、ほとんど非科学な、無根拠の、反復不能の、不思議な出来事である。そして、大人の私はいつもその事に遅れて気付くのだ。

1つは「意味」の向こうで(意味を通して)イメージが産まれ続ける。可視不可視を問題にしないイメージが、内部にも外部にも現れ続ける。現れ続け、私の臓器を疲弊させる。疲弊した知覚器官は、意味の理解を地下に潜らせる。地下の通路は広く、イメージの世界を映像から呼吸に変える。沢山の数字と、沢山の意味ある言葉が、呼吸とシンクロし、吸い込まれ、味わわれ、身体に沈殿していくのを感じる。吐かない呼吸。
沈殿し、私の身体がそこにいる事がこの空間を変えている実感が産まれる。実感は、私の足を動かし、組ませ、またほどかせる。そうして私は観客ではいられなくなる。どうしてもそうは思えなくなる。私は何故だか私を意識し始め、背後に広がる他者の影と、目の前の舞台上の二人も、充分に私であり、主客転倒の意識も無いままに、眼前とともに息を切らし、背後と共に息を呑んでいる。


言葉の意味と響きが、可視の存在である身体を通じて、不可視の体験と、空間性というのか空間に力や熱を出現させる「場」とは、何度居合わせても不思議である。私は確かに彼らの創ったものを「観に行った」のであったし、彼らの声を「聴きに行った」のであったのだが、その表現は、いつも正しくない。観に行った私は、後半ほとんど眼を瞑り、そして鮮やかに彼らの身体を観た。聴きに行った私は、いつしか彼らの発する言葉の意味を理解せず、私の身体が直接に理解するに委ね、そうして私の内部から跳ね返ってくる音なき声は、正しくその世界を私に理解させる。

観るものと舞台空間が完全に分かたれ、成熟した作品を味わい、観るものの自由な感受性でそれを受け取る芸術も有り得るだろう。若しくは、不完全な成熟により観るものに大方委ねてしまうような参加型の作品も。二元性の支配のもと、そのバランスを問うことに、私は時代の要請を感じない。褒めすぎかも知れないが、CORVUSは成熟やその根本の「質」が圧倒的なのだ。新しい世界を産むことは、眼前の世界に対して、正も負もない「圧倒的」なエネルギーが必要で、それをコントロールする為に彼らが費やした時間の質は想像も及ばない。


アルトーがあの場に確かに居た、と言っても決してロマンチックではないだろう。そして彼らの二元性の克服は彼ら自体の、つまりは鯨井氏と定方氏の個我も滅し、最後には確かに1つのアルトーさんになっていたのだ。

2016.6.29
富田 真人