さて、素樸に戻るためにはどうしたらいいかだ。

頭の天辺と足の裏を同時に瞑想してごらん。あくまで頭の天辺と足の裏を同時瞑想することだけに集中すればいい。

 

「素樸に戻る行、面白いですね。

やってみましたら、soothingの時みたいに空気がスワーと入って来ました!

soothingというのは、さっきお話した、苦しくピンチになっている状態をエネルギーで穏やかになだめ、落ち着いた状態に持っていくことです。」

 

ほう、その soothing みたいに空気が入って来た?!

面白いですな。

 

「自分の場合、いつもそうなのかもしれませんね。瞑想=空気スワー!

ここ最近のことですけどね、前は瞑想すると静かな呼吸でした。そして雑念が主で、たまに深い清澄な世界に入ったこともあったという程度です。」

 

空気とは磁力線かもしれないね。ZEROがN極、地上のzero人がS極で、両者の間に磁場が発生する。磁場とは明確な流れだ。磁場で発生した磁力線が呼吸につれて入ってくる。

 

「磁力線が入ってくるのは、実感があります。ZEROとzero人との交流ですね。思ったのは、ZERO世界が地下にあって自分が地表にいる、自分が地表にいてZERO世界が天にある、それが同時に感じられるのではないかということです。自分の上も下もZERO世界です。

ZERO世界においては天と地下がつながっているということですか?」

 

天即ZERO、地下即ZERO。

 

ドンピシャの感覚だ、ヴェルギル君!

ZEROは天と呼ぶしかないのだが、だけど天と呼ぶと地と離れた、地よりも高いところにある天になってしまう。それではこれまでの世界の感覚だ。ZEROは天であると同時に地でもあるからね。体を持たない光の神様がいる世界ではないのだ、ZEROは。

ZEROは天であると同時に地でもある。但し、ZERO地は地球人感覚的には地の底の感覚だ。

その意味においてZEROとは天地なのだ。

従来は、天は高く地は卑(イヤ)しい、と言って天を尊び地を卑(オト)しめてきた。天は天国、地は地獄に繋がっていると言う感覚。

人間が虚構した天地構造だな。

ZEROを文字で表すのは至難の技だ。老子は道、タオ、と表したが、これもドンピシャではない。だからわしはこれをZEROと命名したわけだ。

 

ZEROをソースsourceとお呼びしても構わないのですか?

宗教と関係なく、宇宙と自分が一体になる時に、そのゼロスさんのZEROをソースと呼ぶ呼び方があり、自分は気に入っていました。

sourceというと、淵源ですので空間的時間的両方の、自分が出てくる元のお方、存在ということになりますが、“お方”と呼びますと人格神みたいで相応しくないでしょうか。

ゼロスさんがZEROという命名を、世界に広げてくださると世界中の善良な人たちが、宇宙と自分を真に捉えることができていくのでは、と思います!」

 

SOURCEか、いいね! ZEROを数学的に捉えず、哲学的に捉えた言葉だな。

但し、ZEROは宇宙数学そのものだからSOURCEでは数学的にZEROに肉迫できないからZEROからエネルギーと言うよりもFORCEを駆動することは難しいと思う。宇宙は数であり数学なのだ。勿論ZERO数学のことで、地球人の数学ではないがね。SOURCEと接触している人々が、どうやってSOURCE エネルギーを駆動しているのか知らんが。わしは数式を使って駆動するのだがね。