安倍首相の物言いには特徴がある。官僚が書いた作文を読んでいるだけだから、官僚話法とも言えるのだろうが、安倍首相の無感情無表情棒読み、少し高めの声がそれを加速している。
検察庁法改正を、今国会では見送ると発表した安倍首相の言葉にも、いつものような安倍話法は健在だった。今回の特徴は「だろう」の多用である。「国民の理解を得られない状態では難しいだろう」「ここは、ていねいに説明していく必要があるのだろう」という具合である。
実に無責任な言い方だ。まるで他人事である。問題が起きると、いつも他人事のような言動をしていうが、今回は特にそれが際立った。安倍首相に限らず、私は日頃から誰に対しても語尾に注目している。語尾にはその人の意思や、その問題に対する向かい方が表れるからだ。
最近は「みたいな」で終わる話し方をする人が増えた。何より簡単だからだろう。一度この言葉を使い始めると楽なので、それが癖になるのである。しかし、日本語は主語と述語を華麗につないでいく言語だ。「みたいな」で終わるとちょっとがっかりする。「というところがありますね」という終わり方も多い。
いずれにせよ曖昧な言い方だ。そこまで断言できないという迷いや、遠慮が感じられる。私はシンクタンクにいる頃、上司に「語尾をはっきりし過ぎる。もっと曖昧にするように」と言われたことがある。年下なのに生意気だと思われた子なもしれないが、興味深い発想だ。
話は戻るが、安倍首相はよく「ねばならない」という言い方をする。誰が誰に対して言っているのか、主語も客体も曖昧だ。責任の所在を曖昧にする官僚の作文技術なのだどうが、安倍首相が言うと効果抜群だ。
官僚が安倍首相に忖度して不祥事を起こしても、「そういうことはあってはならない」というのだから、国民を馬鹿にしている。主体がするりと抜けていて、傍観者によるただのコメントになっている。
それなのにマスコミもこの言い方をする。どういう訳か安倍政権になってから、安倍首相の言葉遣いをそのまま真似するようになったのだ。何が起きても「あってはならない」というが、実際に起きているのにそんな表現をするのはおかしい。それがますます責任の所在を曖昧にし、言葉が空虚になっていく。
これは一種の詐欺だ。もはや懐かしい感じがするが、三本の矢などというものもあった。マスコミが繰り返すことによって、そういう立派な経済政策が本当にあるかのような錯覚を起こさせた。かくして日本は、さも経済が上向いているかのような幻想に巻き込まれたのである。