ネットニュースによると、イギリスのフューチャーブランド社という会社が調査した世界の魅力ランキングで、日本が一番になったそうだ。これがどういう会社なのかわからないし、安易な日本礼賛に利用されても困る。

 

 今の日本には思考停止状態の自画自賛があふれていて、困ったものである。こういう本や番組を支持しているのは、多くが孤立した高齢者なのだという。しかし一定の支持が見込めるので、マスコミはこういう情報を量産しているのだ。全く恥ずかしい。

 

 しかし一方で、この正体不明のランキングが「GDPや核の保有などは国の魅力とは無関係」として、独特の文化を保有していることを日本の魅力としている点に、ちょっと感心した。二言目には経済成長やグローバル化ばかりが話題になる昨今、こういう視点は素晴らしい。

 

 日本は今、様々な問題を抱えている。政治も経済も外交も行き詰まっている。しかもマスコミがそれを正確に伝えない。だから、この現実を見ないようにして生きていくこともできる。いや、政・官・財・マスコミがそれを直視せずに逃げているのである。国民もまた同じで、今や集団思考停止状態だ。これこそ日本が抱える最大の危機である。

 

 しかし、だからと言ってグローバル化に狂奔するのも間違いだ。そもそもグローバル化とは何か。人モノ情報が国境を超え、世界を駆け回るのは時代の流れである。精神の鎖国状態ではいけない。変えていかなくてはいけない仕組みはたくさんある。

 

 とはいえ、何でも世界に合わせればいいものではない。特にグローバル化がアメリカ化でしかない現状では、文化の喪失につながる危険性がある。その最たるものが英語至上主義だ。もはや日本語を植民地言語に貶めている。

 

 母国語の軽視は国民主権の軽視であり、中流崩壊と民主主義の崩壊を招く。なぜなら、言語による階層分化と固定化につながるからだ。誰もが母国語で安心して高等教育を受けられ、就職の機会を平等に得られなくては、民主主義国家とは言えない。

 

 もう一つ、世界に通用しない文化の在り方には、日本独特の精神性があるのである。スマホの隆盛とデジタル化に乗り遅れ、家電も壊滅したために、ガラパゴス日本は嘲笑と自虐の代名詞になっている。

 

 もちろんそこには根の深い問題があり、その点は充分に反省するとしても、日本文化全てを世界に合わせる必要はない。そもそも日本人がグローバル化して英語ペラペラになり、はっきり自己主張するようになれば世界で戦えるというのが、全くの幻想なのである。自分を知らないにも程がある。

 

 卑近な例ではアイドルの在り方だ。AKBやジャニーズには私もうんざりしている。だからと言って、K-popアイドルのように完璧な容姿とダンスをマスターすれば、世界で通用するのか。日本人が、ああいう挑戦的で性的魅力を振りまくアイドルになれるだろうか。

 

 なれたとしても、しょせん韓国と競合するだけだ。そして多分かなわない。日本のアイドルは、普通の少年少女が努力するのを見守るものであり、共に同時代を生きていくものである。要は実力主義ではないのだ。これは日本文化の重要な部分で、世界では通用しないが、そこに日本の特性がある。

 

 囲碁も今や日本は韓国に抜かれた。理由の一つは伝統的な、時間をかける碁を続けていることである。韓国は早打ちで、半日で終わる。しかし日本の碁は勝てばいいものではなく、美しさが大切にされる。柔道も同じで、ただ勝てばいいものではない。だからこそ世界にで勝てないとも言える。

 

 物事を勝ち負けだけで見ず、努力や姿勢といった過程を重視するのは、日本の良き伝統だと私は考えている。ただしそこに安住せず、絶えず世界を知り比較しながら、それでも自分を見失わないことこそグローバル化である。要は振り回されないことだ。

 

 一時五千円札にもなった新渡戸稲造は明治の人で、国連の事務次長にもなった人物である。新渡戸は猛烈に英語が出来て、事務総長だったアメリカ人より英語が出来た。その一方で「武士道」を書いたのである。まさに和魂洋才だ。魂まで奪われるのがグローバル化ではない。

 

 デジタル化で遅れを取っているのも、日本は実体のある物に意味を見出すからだ。生活文化を支える道具に意味と美を見出し、洗練させてきた。日本の本やCDは芸術作品なのである。世界に遅れてはいけないが、それを捨ててはいけない。自分に短所と長所を知って上手に生かすことこそ、グローバル化の出発点である。