”常識”とは18歳までにつちかった「偏見のコレクション」である。
~アイン・シュタイン~
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こんにちは!ゆるゆる発達障害トレーダー兼シアワセ起業コンサルタントのカネさんです!
今日は雨なんで家でメッチャ「ゲーム」をやっています!
さて、本題です!
「自分が何を信じるか?」で訪れる未来はガラッと変わる
ボクはそう思っています。
例えばマンションの前を通っていたらベランダから鉢植えが落ちてきたとしましょう?
一方は「ああ、どうして自分はこんな危ない目に合うんだろう?ついてない・・・・」
もう一方は「ああ、当たらなくてよかった~!やっぱり自分はツイてる!」
「鉢植えが落ちてきた」という現実は一緒なのに、
そのときの「捉え方」ってそれぞれ違います。
そしてその
「起きた現実をどう捉えるか?」
によってこれからの未来はガラっと変わってくるんじゃないか?とボクは思うんです。
「OOという現象が起きたからこう感じなきゃいけない」
なんて決まりやルールなんてないし、
「OOという現象が起きたから不幸である」
「OOという現象が起きたからシアワセである」
っていう捉え方って、
あくまでこれまで自分が生きてきた中で培ってきた「固定観念」だとボクは思うんです。
例えばこのブログでもテーマに挙げてる「発達障害」にしても、
「発達障害は”障害”であり、克服しなきゃいけない」
ボクも最初はこっちでした。
「障害」なんだから「克服しなきゃいけない」
「自分は”異常”であり、違っているから周りに合わせなければいけない」
そう思っていたからこそ、
毎日特性の改善と称して
自分を”病人”にし、薬漬けにして
「自分は異常なんだ、間違っているんだ」って自分を追い詰めて、
最後には「鬱」や「自殺未遂」という望まない現実が待っていただけでした。
逆に
「発達障害を”可能性”や特別な”能力」
「天からの”特別なギフト”」
と信じたらどうでしょう?
「自分には”特別な才能”があり、独自のシアワセを掴んでいける!」
「無きゃ無くていいけど、発達障害が”特別な才能”だとしたら克服しなくていい」
ボクはこっちを信じるようにして生き方が大分楽になりました。
発達障害は、
「障害であり克服しなきゃいけない」
「発達障害は問題である」
って捉えなきゃいけないルールはないハズです。
「障害」と捉えるか?
「特別な才能」と捉えるか?
は「自分で決めていい」し、
どっちを自分が採用するかで
目の前に現れる現実ってまるっきり違ってくるんじゃないかと思うんです。
「結局自分は何を信じたらシアワセになれそうか?」
そしてそれを掘り下げると、
「結局自分はどう生きたいか?」
これを決めていくのは「どこまでも自分」なんです。
「自分が信じたいものを信じてもいいんです!」
だからこそ
「自分が望んでいる未来が訪れる」
とボクは考えています。
自分は特別な才能があるって信じていい!