こんにちは!ゆるゆる発達障害トレーダーのカネさん
です!
僕は発達障害の特性を改善せず、「そのままの自分で生きていく」という記事を何度もこのブログで書き続けてきました。
それは、僕が「”発達障害者は特別な能力を持っている”論者」だからです。
「空気が読めない」
「口頭で伝えられた指示を理解出来ない」
「コミュニケーションが上手く取れない」
「集団行動が苦手」
”だからこそ、「何が出来るのか?」”ということを常に考えています。
どうしてこんな風に考えるようになったか?
いつだったか「座頭市」っていう映画を見たんです。確か主人公は「盲目」の剣の使い手だったと思うんですけど、
目が見えないはずなのに、まるで見えてるかのような動き、これに僕は「すごい!どうしてこんなことが出来るんだろう?」って感銘を受けたんです。
「いや、そりゃ映画だからね・・・・」って言われればそれまでですけど。
そこでいろいろ本やネットで調べた結果、”人体”って身体のどこかが欠損したり、機能不全に陥ると、他の器官がその”欠けた部分”を補うために異常に突出した能力を発揮ることがあるみたいなんです。
例えばさっき述べた「座頭市」にしても目という器官が機能不全になると、”耳”が目の変わりになろうとして異常に「聴力」が突出するらしいのです。
そこで健常者には聞き取れない音でも正確に聞き取り、声の太さ、聞こえてくる角度を推理して、
その人は「男なのか?」「女なのか?」 「若いのか?」「年老いてるのか?」「背が高いのか?」
「低いのか?」そして、「太ってるのか?」「痩せているのか?」という目が見えなきゃ判別不能なことまで正確に判断できるというのです。
その結果、目が見える健常者と遜色ない行動をとることが可能らしいです。
僕たちは、
「空気が読めない」
「口頭で伝えられた指示を理解出来ない」
「コミュニケーションが上手く取れない」
「集団行動が苦手」
という機能が欠損して生まれてきたかもしれません。
しかし、これらの機能が欠損していたならば当然それを補うために突出した能力が絶対存在しているはずなんです。
そしてそれを上手く引き出すことが出来れば僕たちはもっともっとシアワセに向けて歩いていけるんじゃないか?と僕は信じています。
その突出した能力を発動するための”絶対条件”が、
特性を無理に改善しようとせず、「そのままの自分で生きていい!」って許可してあげること。
なんじゃないかって思っています。
これはあくまで僕の考えだけど、「座頭市」の主人公も生きていく過程のどこかで「目の見えない自分を改善しようとすること」をあきらめたんじゃないのかな?
「自分は目が見えないままでいい」って改善する努力を「手放した」からこそ、”聴覚”という器官が
突出した能力を持つにいたり、目が見える人と変わりない動きを手にすることができたんじゃないかって思うんです。
目が見えない自分を受け入れ、目で物を見るということを手放した結果、「見える」という欲しかったものが手に入る。
何か不思議ですよね?
このことから僕たち「発達障害者」も健常者みたいになろうとする努力を手放して、発達障害の自分のままで生きることで「出来る自分とシアワセな自分、両方手に出来るんじゃないでしょうか?」
健常者になろうとしなくていい、発達障害者の人生を全力で楽しんでいい!