「発達障害者に正しい理解を」


「我々当事者の特性を理解してもらい共に生きやすい社会作りを」



健常者に当事者の特性を理解してもらう。確かにこれも我々当事者が生きやすい社会を作るための一つの手段だと思います。




しかし、当事者が現代の日本社会で生きやすくなるためのは「どうしても健常者の理解が必要なのか」?という疑問を持っています。


もちろん否定をするわけではないのですが、「当事者が生きていくためには健常者の『許可』が必要」。って感じれなくもないんです。



「発達障害」と一口に言っても千差万別、特性も個人差があり全てを理解し、受け入れるのは正直無理があるし、健常者だって個々で好き嫌いだってあるでしょう。



そもそも何で健常者に受け入れてもらわなければならないんでしょう?



前の記事でも書きましたが、「我々は何も出来ない人間じゃないんです」


一人でもご飯は食べれます。トイレだって行けますし生活する上では何も困ることってないわけです。


それでも健常者の理解が必要ってことは「会社に勤めて収入を得なければ生きていけない」ってことが大前提になってるんじゃないでしょうか?



会社に勤めるってことは「チームプレイ」が肝心です。そして「チームプレイ」は相手の意図を正確にくみ取り、上手く関われるようにしなければいけません。


そのため我々が持つ特性はその環境では上手く生かせないため「健常者にその辺を理解してもらう必要がある」


ってことですよね?


それで長い時間と労力を使って理解してもらうのも一つの方法でしょうが、わざわざ健常者の持つスキルが必要な環境にのこのこ出張って「上手くいかない」「理解してもらえない」って頭を抱えなくてもいいし、こちらもいちいち理解を求めなくても大丈夫な環境を探すべきじゃないかな?



無理やり健常者と同じ環境に置くことが理解につながるとは到底思えません。



それに訴えてもすべての人に受け入れられるとも限りません。


理解してもらうのを待つよりも、あなただったらどうやったら生きやすいか?を探し、それに突き進むのもアリじゃないでしょうか?