ヨシミさんからの、書評が届きました。


今、色々な関係性(間-あいだ)を再構築する

時代なのかもしれません。現在と未来の

狭間、彼と私のすき間など

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「人工知能は人間を超えるか」松尾豊

「弱いロボット」岡田美智男

 

 将棋やチェスの名人がコンピューターと対戦しては負かされる。大学入試にチャレンジする人工知能は模擬試験で、全国の8割の大学で「A判定」(合格可能性80%以上)を叩きだす。「人工知能が書いた小説」というのを読んでみたら、これがなかなか面白い。松尾豊「人工知能は人間を超えるか」を手に取ってはみたものの、これでは読む前から既に人工知能は人間を超えてしまっているのではないだろうか。

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人工知能は「アメリカっぽいもの」を見分けられるか

 AI(人工知能)の進化の歴史が面白い。初期のAIはとにかく多くの知識やパターンを覚えさせて、投げかけた課題に答えを返すというものだった。この仕組みはそれこそ将棋やチェス、オセロといったゲームの攻略には凄い力を発揮する。1秒間に何億手も読めるらしく、人間ではとても出来ない計算だ。

 しかし人工知能で本当に実現したいのは「この本を買った人は他にどんな本を買いたいと思うか」とか、「卵 レタス しめじ」と冷蔵庫の残り物を検索窓に入れるとそれを使ったレシピが表示されるとか、どの株をいつのタイミングで売買すべきかとか、部屋の掃除をした後は自動でコンセントまで戻って充電ができるとかいう問題だった。こういう問いに答えを返すためにいちいちパターンを入力していたらキリがない。

 なので、その後に発展したのは「機械学習」という方法だった。これはパターンを覚えさせるのではなく、AIのプログラム自身がパターンを学習していく仕組みだ。では「学習する」とは、どういうことなのだろうか?機械学習では「学習」を「分けること」と捉え、与えられたデータを「Aであるもの/Aでないもの」「政治系/科学系/文化系」などと分けていく。AIはたくさんのデータの中から、その事象を特徴づける情報を選んでひとまとまりにしたり、線引きをしたりと、データを「分ける」ことで「この映像に映っている人は犯人と同じかどうか」「この年収の人はローンを返済できるかどうか」といった判断など、色々な仕事ができるようになるのだ。 

これはAIの仕組みを考えながら、人間の「認識や判断の仕組み」を考えているのと同じだ。わたしたちはどうしてポメラニアンもブルドッグもチワワも犬だと思えるのか。なぜ、これはアメリカっぽいねとかフランスっぽいね、と感じられるのか。本書では、その対象の特徴を表す「特徴量」が何であるかを判断することが、人工知能の発展のカギだと述べている。人間はこの「特徴量」をつかむことに長けているので、動物の写真を見てそれが犬か猫か、ゾウかキリンかを見分けることは一瞬だ。しかしコンピュータが写真を見て「これは猫か、でないか」を判断するには1000台以上のコンピュータを3日間計算させ続けねばならないという情報から「特徴量」を取り出し、それを使った概念(シニフィエ、こういう特徴のあるもの)を獲得したのちに、それに対応する「名前(シニフィアン、「猫」など)」結び付けて活用する、という人間ならば一瞬でやっていることが、コンピュータには難しい

 

ロボットがゴミを拾わせる

 AIと人間は、その能力をめぐってしのぎを削っているかのようだ。しかし一方では「ほとんど何もできない」というロボットの研究をしている人がいる。岡田美智男「弱いロボット」の帯のコピーは「ひとりでできないもん」。部屋の掃除もレシピの考案も、株の売買もAIは「ひとりで」完結できるようになることを目指しているというのに、ここで紹介されるロボットは「自分ではゴミを拾えないゴミ箱ロボット」「何を話しかけられても『む~』としか答えられないロボット(しかも反応が遅い)」など、まさにそれだけでは何もできないロボットたちだ。

 しかしながら、このロボットたちも最初は「より人間らしく」「人間に近づくには」という思いから作られたものらしい。例えば二足歩行するロボットは、倒れないよう自立るように設計しても、歩く姿はぎこちなく、人間のそれとは全く違う。自動販売機から「ありがとうございました」と言われても全くうれしくない。そんな違和感はどこから来るのか。

 そこで岡田氏が注目したのはロボットそのものでなく「ロボットとその周囲の環境との関わり」だった。なぜロボットの歩き方がぎこちないかというと、重心を常に自分の足底の範囲に固定しているからだ。一方の足からもう一方の足へと、身体が倒れないよう自分の重心を制御するので、薄い氷の上を歩くようなそろそろとした動きになる。しかしホンダの「アシモ」は重心をコントロールするのではなく、むしろ倒れこむようにして足を踏み出す。そして「地面」の反発を利用して歩く。すべてを自分でコントロールするのではなく、いったん自身を環境(地面)に委ね支えてもらう。そして新たなアクションを起こす。これこそが人間が歩行する時に行っていることなのだ。

 

「私たちは地面の上を歩いている」と考えやすいけれども、同時に、「地面が私たちを歩かせている」ともいえるのだ。もう少し丁寧に考えるならば、なにげない一歩とそれを支える地面とが一緒になって、いわゆる「歩行」という一連の行為を組織しているということなのだ。(岡田美智男「弱いロボット」医学書院、2012年)

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 ゴミ箱ロボがよたよたと動き出し、ゴミの前でウロウロしていると、子どもが寄ってきてゴミを拾ってロボに入れてあげる。柱の陰から顔をだして「む~」と言われれば呼びかけられているようだし、車いすの上から「む~む~」と言われると押してあげたくなる。ロボットそのもの、人間そのものという個体ではなく、周囲の人やモノとの関わり、関係性の中から、新たな意味や価値が立ち上がってくるようなのだ。

 ゴミ箱ロボは「自分の力でゴミを見つけて拾い上げる」という機能は放棄している「周りの人にゴミを拾ってもらう」という協力を引き出すスキル備えている。この、他者の行動を促し利用していく技術は、霊長類が多くの人たちと社会を作って暮らしていくために必要な「ソーシャルスキル」とも言えるのだ。AIが「できること」を軸に人間の思考の仕組みを考えていったのに対し、「弱いロボット」は「できないこと」を切り口に、人間の行動様式の特徴にたどり着いたように見える。

 

関係性の中に本質を見出す

 このままAIやロボットが発展していったら、人間の仕事はなくなってしまうのではないか。AIやロボットの技術を持つひと握りの人たちに、生活が支配されてしまうのではないか。そんな風に思っていたわたしは、実は「弱いロボット」をもって、ロボットの能力主義を批判するつもりでこの2冊を読んだ。マッチョなスーパー・コンピュータよりも、委ねたり支え合ったりする関係にこそイノベーションの萌芽があるのではないか…と。

 しかし「関係性」に注目しているのは「弱いロボット」だけではなかった。AIが「特徴量」を学習する時に重視しているのもまたデータ間の「相関関係」であった。

 ネコの画像を判断する「特徴量」をコンピュータが見つけるのには膨大な時間がかかるとい。しかし近年、このデータの相関関係を分析することが「特徴量」や「概念」をAIが自ら見つける技術のブレークスルーとなりうることが分かった。異なるデータとデータの間にひそむ共通点を発見することで、「~っぽさ」「~らしさ」つまり「概念」を獲得する。そして、自身の行動とそれによっておこる外界との関係性」から学ぶことで、AIはさらに新たな特徴量や概念を発見していくことができるようになると松尾は予想している。AIも「弱いロボット」も、どちらもその機能を単体で高めていくのではなく、周囲の環境との「関係性」をデザインしていくことが、新たな機能や価値を生み出しているようなのだ。そしてそれは「人間ならではの能力」とは何か―ひとつは「概念(シニフィアン)」を獲得し言葉(シニフィエ)と結びつけていくプロセスであり、もう一つは周囲と共同で事を為していくためのスキルである―という問いに向き合い続けることのようだ。

 

世の中の「相関する事象」の相関をあらかじめとらえておくことによって、現実的な問題の学習は早くなる。なぜなら、相関があるということは、その背景に何らかの現実的な構造が隠れているはずだからである。(松尾豊「人工知能は人間を超えるか」角川EPUB選書、2015年)

 

外界との相互作用による動作概念の獲得は、新たな特徴量を取り出す上でとても重要である。(中略)

「やさしい」「難しい」などの形容詞的な概念は、何度もゲームをしてみて初めて獲得できる抽象的な概念だ。割れやすいコップというときも、押すと割れる、落とすと割れるという行動と結果のセットがあるからわかることで、「割れやすい」「割れにくい」という形容詞も、ガラスや陶器、プラスチックなどの素材によって、あるいはコップの形状や厚みによって、どういうときにどれだけ割れるか、何度も試してみて初めて獲得できる概念である。(中略)

 いったん動作を通じた特徴量を得ることができれば、次からは見た瞬間、割れやすいコップだから気をつけて扱おう、やわらかいソファだから座ったらこれくらい身体が沈むだろうという予測が立ちやすくなる。周囲の状況に対する認識が一段階深くなり、ロボットの行動はより環境に適したものになる。(松尾豊「人工知能は人間を超えるか」角川EPUB選書、2015年)

 

 

私は、「もうそろそろロボットのカタチをデザインする時代ではないのかもしれない」と思った。むしろ、「周囲との関わりをデザインする時代なのではないか」と。ロボットの個体としての姿や機能を議論するのではなく、周囲との関わりから立ち現れる意味や機能に着目していくというロボット研究があってもおもしろい。(岡田美智男「弱いロボット」医学書院、2012年)

 

 ある部分では人工知能は人間の能力をすでに超えており、ある部分ではまだ人間に及ばないところもある。しかし人工知能はますます進化し「人間を超える」力を発揮する部分が猛スピードで増えていくだろう。こうしたテクノロジーむやみにれるのでも、あなどって手なづけようとするだけではなく、どのような関係性を作っていくかを考え続けていくことが、人工知能と人間の新たな能力を開発することにつながるのではないだろうか。   終