来るべき民主主義、そして成熟
わたしは今、一体どうしていいのか。全く途方に暮れている。子どもの6人に1人が衣食住にも事欠き、若者は満足な教育が受けられない。働いてもうつ病になり、認知症を患った人を受け止めきれず家族が心中する。あるいは、低賃金で働く施設の職員が虐待する。ニュースを見ると世の中は地獄のようなのだ。
この状況を変えなければと、多くの人が声を上げるようになった。各地でデモが起こり、国会議事堂を群衆が取り囲んだ。路上で、Twitterのタイムラインで、政治についての話題はかつてなく熱を帯びた。この波に突き動かされるように、わたしもデモの列に加わり、インターネットでよびかけられる署名には次々に賛同した。
しかしこの動きを冷ややかに見る友人たちも少なくない。大きなことばかり言っていても仕方がない。反対、反対とばかり言っていても変わらない。怒りからは何も生まれない。まずは自分が変わることだ。自分のできることから少しずつ、こつこつと積み重ねていくのだ。そうして彼女ら彼らは目の前の課題や仕事、――障害者の権利侵害を防ぐことだったり虐待されている子どもや女性を守る仕事だったりいろいろなのだが――普段から向き合っている活動に淡々と、しかし力を込めて向かっているのだった。
もっともなことだと思う。でもわたしの中からは「本当にそうか?」という声も聞こえてくる。確かにその活動も大事ではある、でもそんな悠長なことばかりやってていいのだろうか?現実は危機的なのだから、今すぐ根本的に状況を変えるアクションをしなくていいのか?社会を大局的に見ること、政治的なふるまいをすることから目をそらし続けていいのだろうか?それでは結局、この状況から勝ち逃げしたい人たちの思う壺ではないか。わたしは今、民主主義ってなんだー!と問いかけられても、これだー!といさぎよくレスポンスできるようなものを持ち合わせていないのだ。
強化パーツを足していく
2013年、東京都小平市都道の建設計画をめぐって住民の直接請求による住民投票が行われた。「来るべき民主主義」には、著者である國分功一郎さんが突如として巻き込まれたこの住民運動の挫折と盛り上がりの両方が鮮やかに書かれている。
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運動の中に見出した喜び、思いもよらない行政の対応への戸惑いと怒り。ひとりの住民としての感情の揺れ動きが心に迫る。そしてその思いを、いち哲学者として歴史と古典に依りながら思索を深め、やさしく新しい言葉にして読者へ返す。
彼の言葉はやさしいけれど、その主張は一読してすぐに飲み込んでしまえるようものではない。明快であるが単純ではない。例えば本書では、現在の議会制民主主義の中では、主権者である国民は立法権に間接的に関わることができるだけで(選挙で法律を作る係である代議士を選べるというだけで)、決められた法律を運用する係である行政権にはまったく関われない。そのために主権者の思いとは異なる施策が進められてしまう。そしてそもそも議会が機能していない、一部の会派が議会を牛耳っていて議論が政策に反映されない。といった問題が提起される。しかし、だからといって直接民主制を推し進めろとか議会を根本的に改革せよ、などという主張はなされない。彼の提案はこうだ。現在の制度をイッキに変えてしまうのではなく、いまある議会制民主主義の仕組みに「強化パーツを足していく」というものだ。その「強化パーツ」のひとつとして、住民投票を挙げている。
議会制は、すべての政治案件を議会という一つのアリーナに集約して処理することを目指す体制である。つまり、議会制は政治を一元的に処理することを理想としている。(略)
しかし、実際の政治は一元的に決定されているわけではない。議会だけが決定を下すなどというのは嘘であって、役所や官庁や警察など、議会以外の様々な機関で政治や社会に関わる決定が下されている。つまり実際には多元的に決定されているのだ。
ならば、主権者である民衆が政治に関わるための制度も多元的にすればいい。つまり、議会という制度は一つの制度として認めた上で、さらに制度を追加していけばいい。(略)議会の改善だけでなく、それと同時に、それと並行して、制度を追加していけばよい。(略)立法府だけでなく、行政府にも主権者が関われる制度を作っていけばいい。そうすれば、近代の政治哲学の誤りを少しずつ是正していくことができる。根本から変える必要はない。革命も必要ない。制度を足していけばいいのだ。(國分功一朗「来るべき民主主義」幻冬舎文庫、2013年)
揺らぎの中にあることをおそれない
同時に彼は、政治とは何か?議会制民主主義とはどのような制度か?と、ホッブズやルソー、カール・シュミットやハンナ・アレントの言葉を参照しながら、それらのそもそもの定義を考えていく。だからといって「そもそもこういうものなのだから、こうすべきだ」という性急な提案をすることには慎重なのだ。地道に議論を積み重ねて賛同者を増やすこと。粘り強く交渉すること。「強化パーツ」を少しずつ少しずつ足していくこと。それらは、端的で強いメッセージ掲げることや、根本的に何かをひっくり返そうとする、「すぐにわかること」「今すぐ変わりそうに思えること」に魅かれがちなわたし(たち)には欠けている「大人の態度」だと感じた。どんなに今が酷くても、すぐに全てを変えることはできない。どっちつかずの状況にも耐えていく。そして少しでも良い行動を確実に積み重ねる。そうした熱心な冷静さが、醒めた情熱が必要なのだ。
わたしがもう一つ「大人の態度」であると感じたのは「強化パーツ」のひとつとしての「行政・住民参加型」のワークショップの提案だ。昨今ではどの地方自治体でも盛んに開催されるようになっているが、わたしは最近この仕組みも食傷気味に感じていた。「まちのことを考えるワークショップ」なんて言っても、来ているひとはミドルクラス以上の「意識の高い」人ばかりだ。何万人もいる住民の中を、どうしてその何十人が代表できると言えるのか。清く・正しく・美しい「話し合い」の白々しさ…。しかし彼はこう述べる。
ワークショップのファシリテーションから学ぶべきは、わざとらしさを避けないということだろう。「住民参加」というとどうも自然発生的なものを想像しがちである。しかし、それは決して自然発生しない。それは誰もがよく知っていることだ。しかし、だからといって「上」から指導するとか、「お上」が住民に代わって何でも決めるというのではダメである。むしろ、何かが生まれる場を作り出すこと、自然発生する場を人工的に設け、運営していくことが大切なのだ。(同)
近代では「自由な主体」=人間はそれぞれ何らかの固有の意見を持っていて自由にそれを表現できるはず、と考えがちだ。それも実は現実にはあり得なくて、どんな議論も対話も一定の様式に従ってされているものだと。だから、行政と住民の「議論や対話」の場も、人為的にふさわしい場を用意しなければならない。その様式としての「ファシリテーター」を置いたワークショップなのだと。
ファシリテーターは「どうすべきか」からではなくて、「実際にどうであるか」から始める。(略)ファシリテーターは、自分の特性、地域の特性、その場の特性が実際にどうであるのかを出発点にして考える。この発想の転換こそが、対話や議論を創り出すのである。(同)
「どうであるか」を起点にすることは、実は難しく苦しいことだと考える。現実の地獄のような面に向き合わされることもあるだろう。それに対して「こうすべきだ」を拠り所にした議論はラクなのだ。理想を盾にそうでないものを批判していれば済むのだから。しかし、そろそろ「すべき」に逃げないで「どうであるか」にとどまる勇気が必要なのだろう。本書には、住民参加型のワークショップを使って進めた、ある市の駅前広場リニューアルプロジェクトの成功例が紹介されている。ここでファシリテーターは建築家に、ワークショップで提案された活動を必ず実現してほしい、ということに加え「ワークショップに来られなかった人ッチの駅前利用も想定しながら設計してほしい」という要望も出したそうだ。ゼロか100かではない。「どうであるか」に立脚し、今ある限界も受け止めた上で行動していく。「民主主義」は成熟した「大人の態度」がなければ使いこなせない制度なのだった。
最後にはデリダの言葉を引いて、民主主義は常に「完全にはならないもの」に留まると同時に、(達成されないからといってあきらめないで)常に「目指されなければならないもの」だと結論づけられる。ゆえに、民主主義は来るべきもの(democracy to come)なのだと。この不安定な、どっちつかずの、それゆえにどのようにも変化できる余地のあるものから逃げないで、楽しんでいけるようになること。それが知性であり、人としての成熟ではないかとわたしは考えた。そして、それは難しいことでは、ないようなのだ。
何よりも大切なのは、「何かおかしい」と感じたのなら、その気持ちを大切にしておくことである。人に言いにくかったらこっそりとその気持ちを抱いておけばいい。誰か信頼できる人がいたら、その人に話してみればいい。今の時代、インターネットを使って簡単に人に訴えかけることができる。(同)
日本の社会も少しずつ変わってきている。そして社会は少しずつしか変わらない。不安があるのは当たり前で、住民参加を希望していこう。本書はそのような気持ちで書かれている。(同)
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