これが田代峠の奥に存在すると言われている不明の正体なのかと、さす がにぎょっとして足を停めようとしましたが、自分の意志とは正反対に、 足の方で動きをとめてくれません。
私より数歩だけ前を進んでいた息子 も同じ思いだったそうです。ガスはますます濃くなって、私達の方に向 かって輪を広げてきて、私達は見えない引力にずるずると引き込まれて いくのでした。
前を歩いていた息子が、真青な顔を私に向けて叫びました。
「お母さん。 これ」山歩き用に使っていて、私が息子に持たせておいた大型の携帯用 羅針盤を指差していました。あとは恐怖で言葉が出ないらしいのです。必 ず北を示していなければならない指針が、無暗にぐるぐる回るだけで、不 安定な針先はどこを差しているのか見当がつきません。
そんな信じられ ないことがと、羅針盤を水平に持ち直しても、同様に針は固定せずに大 きく回ったり鋭く振れ動いて、決まった所を差さないのです。不安定な振 れがおさまると、前方の方角に固定してしてしまいました。
初夏の太陽の 方向と言えば、東か南です。磁石の北に向くべき針が、東南に。あり得 べからざる事態に仰天してしまいました。そして、指針に向かって私達 の身体までが、吸い込まれるように動かされていることに気付きました。
つづく