息子は休暇をもらい、長年の教員生活から解放されて気楽な恩給暮ら しの私との二人は、昨年五月十日の晴れた日に、宿願の田代峠に向か いました。

山と高原のだだっ広い私の町は家から峠まで二十粁(キロメー トル)以上もあるのです。未舗装のでこぼこ道を車にゆられて行きますと 峠より相当離れている手前に、屋敷台と称する数軒の小落がありました。
車はそれ以上進めません。

駐車させてほしいと、一軒の家を訪れました。わらぶきの屋根と、手造 りの荒い柱が目立っていて、電灯もありません。黒ずんだランプが印象 的で、現代では想像もつかないくらいに、古風なたたずまいでした。

この小落では、他家の人間と会うことが珍しいらしくて、底抜けの善意を示して くれましたが、田代峠から奥の山の地理を尋ねますと、上機嫌だったこ の家の主は、急に険しい顔つきになって、

「お前さん方よ。わしらのような山歩き商売の者でさえ、峠から向かい 側には足を入れないのだ。止めた方がよいと思う。一歩でも踏み込むと、 得体の知れないものがあって、必ず災難が振りかかってくる。わしが知 っているだけで、何人かが命を落とした。あそこだけは止めなさい」

こう言って、山菜取りには予備の食糧がいるだろうと、小動物のくん製 肉をたくさん持たせてくれました。

つづく