ある男が、山中の湖で釣りに興じていた。
あまり人には知られていない場所らしく、自分以外には誰も見当たらない。
貸切の状態に気を良くしながら何時間も糸を垂れていたが、不運にも魚はまったく釣れなかった。
もう諦めて帰ろうとしたその時、いつの間に来たのか、すぐ傍らに人が立っていた。
白いワンピースを着た髪の長い女… 体つきのわりには、腹が膨れているように思えた。
女は湖の真ん中を見据え、何か穏やかではない台詞をつぶやいている。
今にも倒れそうな感じだったが、その緊迫した雰囲気に呑まれ、男は声をかける事が出来ない。
よく目を凝らすと、女の体からうっすらと線が見える。
どうやらそれは縄のようで、彼女の前に立つ影と繋がっていた。
影の体は小柄で、全身が黒々とした毛で覆われ、湖の水とは違うぬめりのある液体で濡れていた。
この毛むくじゃらの小さな先導者が、懸命に縄を引いて女を湖に誘っている。
(サル……!?)男は心の中でそう思った。すると、猿らしきものはこちらに振り返って、
「ちがうよ…」と、一言発した後、女を連れて水の中に消えた。
彼はその異様な光景に目を奪われ、しばしその場に立ち尽くしていたが、やがて、箍(たが)が外れたように恐怖に襲われ、一目散にその場から逃げ出した。
男は悪い夢でも見たのだと自身に言い聞かせ、この事を誰にも言わなかったが、後日、湖面に身篭った女の水死体が上がったのを、新聞の小さな記事で知った。
そこには自殺と書かれてあったが、事件を目の当たりにした彼は、誰が聞くでも無く静かに否定した。
「ちがうよ…」