昔、ある男がいた。彼は山の怪異を物ともせず、その頂を征する事を生き甲斐としていた。
山の麓に面する村では、厳しい生活の中で培われた、様々な俗信や禁忌の話を耳にした。
しかし男は、そんな馬鹿な事があるものかと、山を登り続ける。
山の中腹の集落では、山神の恩恵に授かる傍ら目にされた、様々な物の怪の話を耳にした。
しかし男は、そんな馬鹿な物がいるものかと、さらに山を登り続ける。
男は、神や鬼が何するものぞと一笑に付し、山の頂上を目指し凛々と歩みを進める。
そしてついに、男は頂を征した。頂を足で踏みしめ、腕を組み、眼下の山々を見下ろす。
そこには己以外の何者もいなかった。風が頬をすり抜けるのを感じながら、しばし、孤独に酔いしれる。
「人のおらぬところに、神も鬼も住まわぬわい!」男は静寂を振り払い、豪快に笑う。
「…誠に。」と、後ろとも前とも付かぬ方向から声が聞こえた。
何者も足を踏み入れる事を拒み続けてきた山の頂。そこに人が足を踏み入れた瞬間、何かが生まれた。
しかしそれは、神であったか、鬼であったか……。
春。山の麓の雪の下で、静かに横たわる男が見つかった。
その顔は物のように凍て付き、躍動感あふれる生前の面影は、まったく失われていた。