勿論、従業員にはキツく箝口令を敷いたのだが、次第に泊まり客からも
「夜寝ていると、部屋の中を誰かが歩いている。」
「真っ暗なのに、誰かが便所を使っている気配がする。」
「廊下の曲がり角から、青い顔の幽霊がこちらを覗いていた。」
「部屋を空けている間に物が動いていたり、無くなったりする。」
などと苦情が出始めた。
近隣の鉱山町の住人が主なお客と云う事もあり、アッという間に噂は広まった。
そうなると、信用第一の旅館商売、とたんに客足が減り始めた。
悪い事に地元の田舎新聞はおろか、誰から聞いたか全国紙の週刊誌までが
「山宿の怪」と題したゴシップ記事を掲載し、面白怖く騒ぎ立てた。
そんな騒ぎが2年も続き、爺さんは本気で廃業を考えたそうな。
(今ならオカルト旅館って銘打って逆に売り出せそうな気がするけど…)
打つ手もなく焦燥した毎日を送る爺さんに、ある日警察から連絡が入った。
隣町で無銭飲食の老人を捕まえたのだが、貴方に身元引受人をお願いしたい、と言っている。との事。爺さんが不審に思いながらも警察に出頭すると…
信じられない事に、あの番頭が、頭を掻きながら小さくなって座っている。
番頭は、確かに腹いせに呪詛に満ちた置き手紙を書いて出奔したが
死ぬ気なんか更々無く、いずれ見返してやると結構前向きに考えていたらしい。
新しい職場を求めて近場の都市へ意気揚々と出てみたが、多少の商才はあっても、所詮は田舎の山宿の番頭程度の就労経験しかない、初老の男に世間は世知辛く再就職の道は険しかった。
たちまち喰うに困った番頭は、呆れた事に山宿に舞い戻り
勝手知ったる他人の家、日中は使われない布団部屋や空き部屋等に身を潜め、宿泊客も従業員も寝静まった真夜中を見計らっては、
食事や風呂を失敬し、時には帳場や宿泊客の財布から小銭をくすねて、(警察を呼ばれるので、被害者が大事にしない程度の金額をと気をつけたらしい)息抜きに遊びに出掛ける、と云う生活を、なんと2年も続けたと云う。
久しぶりに再会した番頭は、ろくに日の光にも当たらなかったせいか
まるで地獄の底から這い出て来た幽鬼のようで、爺さんは心底ゾっとしたそうな。