険しい山々の間に、小さな秘湯の宿がある。
そこは10人も入れば満員になる内湯と、宿から少し山道を下った所に、
もう少し小さな露天風呂を持っている。
この露天風呂、深夜になると時々、不思議なものに出会う事がある。
灯りと言っては脱衣所の電灯と月明かり。それ以外には何もない。
あたりは信じ難いくらい濃い闇と、星々が煙るように瞬く空。


風が時折、草木を揺らして通り過ぎる。
こんこんと湧き続ける湯。
耳鳴りがしそうなほど静かな中で、手足を伸ばし、ぼーっとしていると、
突然“ちゃぽん…”と音がする。
だが、音のした方へ目をやっても、何の姿も無い。
けれども、そちらにはまるで雨が降っているかのように、湯の表面に、
丸い小さな波紋がぽつり、ぽつり…と幾つも生まれて消える。


それも、人が手を伸ばした範囲ほど。
そして、その雨垂れと共に線が一本、ゆっくり、つぅーっと走る。
ほんの少しゆらり、と湯を揺らがせ、俺がいる所から一番遠い所に
止まって陣取る。
そこにだけ、静かに雨が降っている。



夜空には、時々星が流れる。
しかし、湯船の片隅には、静かに雨が降り続ける。
たまに、掌で湯を掬って肩に掛けるような、ぱちゃり…ぱちゃり…と
言う音がするが、それだけ。
一人と一つ、それぞれに時を過ごす。
いい加減のぼせそうになり、向こうへ「お先に」と声をかけ、俺が先に
上がった事は2度ばかり。



だいたいは、上がろうかどうしようか迷い始めた頃、さっと強い驟雨が
吹き付ける。
思わず目を閉じ、開けた時には、雨はもうどこにも無い。
ただ一度、その驟雨が、目を少し細めるだけでいられた事があった。
瞬間、降りしきる雨の中を、うっすらとした灰色の、何となく女性を
思わせるような人影が、俺の視界を横切った。



何かを見たのは、後にも先にもそれきりだ。
不思議な事に、これに出会った次の日は、何故か必ず雨が降る。
見えない影の周りに降っている雨粒が、雨脚の強さの目安になる。
だから、俺はそれを“雨女”と呼んでいる。





今年はまだ、残念ながら出会えていない。