落ちた。
と言っても、ほんの3メートルほど。
濃い色の瀬まで一瞬だった。
こもった水音と泡が満たす水中で、もがいた。
充分な水深はあったが、上下は分からなかった。
ザックの浮力で浮き上がると、頭では分かっていたが、
それをじっと待てるほど、冷静でもなかった。
水を大きく掻いた手から、抵抗が抜けた。
伸ばした手、肘から先が水面に出たらしい。
次いで、顔に空気を感じた。
口と鼻が空気を求め、少しの水と大量の空気が
胸に流れ込み、咳き込んだ。
目を開いた。
明るい光景が、はるか頭上に広がっていた。
田んぼと、村の鎮守様でも置かれていそうな、こんもりした山。
田んぼに張られた水は、青い。
稲は明るい緑色。
無様に落ち、水面に顔を出して頭上に見えたのが、それだ。
どれだけ驚いた顔をしているだろう。
俺の動きが止まった。
背中のザックに、水中へ引き込まれる力を感じた。
同時に、水面から引き出されるような力も。
頭上に見えている光景が、実は眼下にある。
不意に、そう気付いた。
はるか下の田んぼまで、落ちようとしている。
空中にぽっかり浮かんだ、大きな水の塊の中に俺は居る。
数メートル先の水面が弾け、水着姿の子供が空中に
投げ出された。
声はなく、たちまちその姿は小さくなり、はるか下の田んぼに
綺麗な丸い波紋が広がった。
背中のザックに引かれるまま、俺は水に潜った。
すぐ顔に空気を感じ、ザックの肩紐を乱暴に掴まれ、地面に
放り出された。
頬を激しく叩かれ、目を開くと、友人の顔があった。
一分以上も沈んだままだったという。
子供が落ち、波紋を広げた田んぼ。
もし、俺がもっと高いところから落ちていたら、一気に水を
突き抜け、俺も田んぼに波紋を作っていたかもしれない。
翌日、山で飛び込み遊びをしていて行方不明になった
子供の記事を新聞に見つけた。
俺が居た所から、数百キロも離れていた。
どこかの田んぼで、子供の死体が発見されたという記事は、なかった。