常磐線は申すまでもなく上野と仙台を結ぶ東日本の重要幹線のひとつで
 ある。
 常磐線の列車は上野駅から出発するが、起点は正確には日暮里である。
 日暮里から分岐した常磐線の線路は関東平野を北東に向かって伸び、
 北千住、綾瀬、金町を経由して江戸川を渡った後、ほぼ真北に進路を
 変えて松戸に至る。


その後、馬橋を経て新松戸を過ぎたあたりで再び線路
 は北東にカーブし柏に到達する。このため流山の中心街は常磐線のコース
 から大きく外れる格好になっている。
●常磐線が開通した明治中期において柏一帯は、まだ開拓が始まったばかり
 の原野に近かった。一方、流山は江戸川の水運と共に既に江戸時代から
 栄えていた商都である。


幕末に新選組の近藤勇が最後に布陣した陣屋跡
 も史跡として残っている。
 普通に考えれば原野の柏よりも既に都市を形成している流山に常磐線を
 通すべきである。しかし流山に常磐線は通らなかった。
 このため流山では常磐線が通らなかった理由は、当時の流山の住民の
 考え方が非常に保守的で、線路の敷設に猛反対したため、やむを得ず流山を迂回して柏を通ったのだと語られている。
●流山に限らず明治の鉄道開業当時、大きな町でありながら鉄道敷設に
 猛反対したために鉄道のコースから外れてしまい、その後、町自体がさび
 れてしまったという話は、「鉄道忌避伝説」と呼ばれ、全国にごまんと存在
 する。明治の人々が鉄道敷設に反対した理由としては以下のようなものが
 伝えられている。


1.蒸気機関車が吐き出す火の粉で火事になる。
 2.鶏が汽笛に驚いて卵を産まなくなる。
 3.蒸気機関車の煙で田圃や畑が痛む。
 4.駕籠より早い乗り物が通っては商売が上がったりになると駕籠かき
   業者が反対。
 5.疫病がはやる。


白土貞夫氏著の「千葉の鉄道一世紀
 (崙書房刊)\2,500」には千葉県
 の鉄道発達の歴史が貴重な
 古写真と共に書かれていて
 大変興味深いが、同書の中で
 白土貞夫氏はこの鉄道忌避伝説
 の整合性を否定されている。
 こういうのはいずれも後世になって作られた話であって、実際に当時地域
 住民が鉄道敷設に反対したという証拠はほとんど残っていないそうである。
 確かに鉄道が通らなかったためにさびれてしまった町に現在住んでいる
 住民の気持ちとしては、ご先祖様の先見の明の無さを嘆く気持ちと共に、
 何か鉄道を通すべきではないと考えた強烈な理由があったに違いないと
 思いたいであろう。1-3の理由はいかにも後から考えた理由っぽい。


 当時の人々がそれほど頑迷であったとも無知であったとも思えない。
 むしろ明治の日本人は今以上に「新しもの好き」だったと思うのである。
●ここで常磐線が敷設された最大の目的について改めて考えてみる必要が
 ある。
 常磐線は日本鉄道によって計画、1896年(明治29年)に田端-平間が開通
 しているが、鉄道建設の最大の目的は、当時の富国策の一環として常盤
 炭田の石炭を京浜地区に円滑 迅速に輸送するための貨物輸送にあった
 のである。
 つまり旅客輸送は二の次であり、流山を通るか通らないかはどうでもいい
 ことだったのではないかと推測する。従って松戸から北上して流山を経由
 するよりも、新松戸あたりから北東に進路を変え、柏、我孫子、取手を経由
 して行く現在のルートが距離的に最短コースであり、日本鉄道としては
 迷わずこのルートを選んだのではないかと思うのだ。
●100年たった今、結果として柏市は東京都心から40分圏内の近郊都市
 として大発展を遂げ、一方、流山は、よく言えば昔の面影をよく残した落ち
 着いた町となっている。


当時、積極的な鉄道忌避運動はなかったとしても、
 積極的な誘致努力が足りなかったとすれば、それは相対的には「鉄道忌避
 だったという考え方も成り立つかもしれない。
 上に挙げられた忌避理由のうち、最後の疫病については、私は科学的根拠
 のある理由なのではないかと考える。エピローグの項でも述べた通り、鉄道
 駅からはおびただしい数の
旅人、すなわちヨソモノが流れ込んでくるのを
 防ぐことは出来ない。その土地の人々に免疫がない疫病がそこから広がって
 いくことは充分考えられる。
 鉄道が交通機関の主役だった時代、鉄道駅は良くも悪くも異次元世界とを
 つなぐ秘密の扉だったのであり、人々は憧憬と畏怖の念をもってその扉を
 眺めていたに違いない。