――― 映画 「レッドクリフ」 を観て ・ ・ ・         


   歴史的形成とか歴史的生成と呼ばれるものが、単に時系列的な因果関係を表す
   ストーリーであったり、概観的で概括的な時空構成とも言えるプロットを表すのなら、
   実のところ、時空的生成、或は、時空的創成とはほとんど関わりがない。
   言わば、ストーリーを考えたりプロットを構成すること自体が時空的創成に関わって
   いるだけで、表現されたり表明された記述内容が歴史的創成に直接関わっている
   訳ではない。              
   
   
   ここに、歴史的記述の難しさ、困難さがある。        
   歴史的現在 (つまり、「生成」) と歴史的記述、或は、歴史的表明とが、
   必ずしも一致しない所に歴史家の悩ましさがあり、歴史家自身も、現に、
   今此処で歴史的創成に主体的に関わっている、という参画の事実を捨象
   しない限り、歴史的記述という客観的記述は不可能となるからである。
   
   
   歴史的な主体的関与、或は、主体的関与と言う具体的な歴史的事実の捨象、    
   自らも今此処で歴史的創成に関わっていると言う具体的事実の捨象に始まる
   歴史的記述とは、言わば、自らの関与を否定し自らの責任や権利さえ放棄して
   成立する 「主体なき歴史」 を意味し、その意味では、主体的な関わりを骨抜き
   にされた客観的で冷静な 「客観的記述」 とも言える。    

   
   しかし裏を返せば、この客観的記述は当面する具体的な歴史とどのように
   関わっているのだろうか。今も尚、具体的に生きて働く歴史的現在を前にして、
   何より、そのような歴史的自己に当面しながら、それでも尚、脱・主体的に、
   或は、純客観的、傍観者的に語らなければならない理由とは如何なるもの
   なのだろうか。
   それは単に、歴史的記述に主観的要素や主体的関与を持ち込めば、
   より一層記述が困難となると言うばかりでなく、何よりも自らの過去の歴史に
   対する責任や反省、或は、懺悔や悔恨さえ問われ兼ねないからなのである。    

   
   我々が歴史の中に見失い見落としてきたもの、これこそ他人事のように
   語り継がれて来た、脱主体的な客観的記述の中に無視し続けてきたもの、
   歴史的批判や反省という反・歴史的主観なのである。
   今も尚、厳粛で冷徹な人の生き死にと、人の殺戮、或は、略奪や凌辱、
   或は、愛や正義と言ったドラマツルギーを同列に扱うことによって、単に
   歴史上の物語となり英雄譚となって形式化され通俗化してしまうのである。