頭の片隅に 「因縁生起」 (縁起) のようなものを考えている。    

   あるいは、「臨済の三句」 のようなものを ・ ・ ・ 。

   
   
   < 三要印開して朱点側つ、未だ擬議を容れざるに主賓分る。>

   
   これが臨済の第一句である。

   『臨済録』 上堂の末尾を飾る 「臨済の三玄三要」 がこれである。


   三要については三玄と共に諸説ある。 これと言った定説はない。

   しかし、これが 「場の破れ」 を意味していることだけは確かだ。


   絶対真空場とも言える 「絶対無」 の現場が、自律的かつ自発的に破れて

   主客 (主賓) 的な現象場 (相対場) が立ち現れるのである。


   したがって、「場の破れ」 と 「三要の印開」 とは同一事態性を現し、

   場の破れのあるところに三要が印開し、三要の印開するところに場の破れが生じている。


   わたしは、これを勝手に 「自覚の三要」 とか 「心の三要」 と呼んで、

   <場の三要> に代えている。


   いわゆる、CPT対称性がこれである。