それは、存在という 「場」 を通じて、

   あるいは、関係する場という 「場所」 を通して、

   「今ここ」 へと、時空的生成の中に 「無意の真人」 として現れる。

   いわゆる、「無意識の人」 とも呼ばれる ≪覚者の現成≫ である。*

   
   * 関連記事: 2/18付 「無意の真人」 参照
    http://blogs.yahoo.co.jp/kyouoyaji/48332228.html

   
   
   それは同時に、場を通じて <純粋な知覚> として現れ、

   言わば、一切の思惟や思考、或は、反応を交える以前の

   未だ反応なき 「未生の知覚」 である。   (不識の覚)


   それは又、現実 (現象的事態) をありのままに知覚し、如実に知真するのであって、

   「直接的な知覚」 とも、クリシュナムルティのいう 「全体的知覚」 ともいえる

   「純粋知覚」 であり、西田のいう 「純粋経験」 でもある。


   此処には、未だ知覚するものと知覚されるもの、

   或は、気付くものと気付かれるものとの間隙がなく、

   直接的で自知的な隙間のない知覚となっている。


   要するに、主客なき知覚、能所なき知覚、自他のない知覚であって、

   しかも、禅に言う 「見聞覚知非一一」 と言われるのが是であって、

   一々個別の知覚ではない 「全体的知覚」 なのである。


   禅では、これを冷暖に自知し、柳緑花紅に了悟し、

   明暗、痛痒に分別し、好悪に歴然頓悟するのである。