<仕組まれた悟り>
実は正直に言ってしまえば、久松禅学に出会った頃、
わたしは何かしら久松禅学に対する違和感というか、
ある種のうさん臭さを感じていた。
それは、どこがどうという訳でもないのだが、どうもスッキリしない、
胃の腑に落ちぬもどかしさ、引っ掛かりを感じていたのである。
( その当時は、当然、私の側に問題があると考えていた。 )
それは見事なまでの整斉さ、シンメトリーとでも言うのだろうか、
万事に抜かりなく、オツに澄ましたソツの無さと言ったものが
私の引っ掛かりの原因だった。 (イン・ザ・ムード)
いわゆる目立った欠陥、瑕疵が見当たらないのである。
ぜいたくな奴だとお叱りを受けるかも知れないが、
このように万事にソツの無い優等生振りを見せ付けられると、
おれのような劣等的へそ曲がりには、どうにも愚図って見せたくなるのが
人の世の常であり、人情である。 (「ごまめの歯軋り」 参照)
それまで六祖や臨済を中心に展開される祖師禅や如来清浄禅に馴染んでいた私には、
看話禅の室内で為されるストイックなまでに洗練された静謐さや整斉さ、
或は、合理化され合法化されたソツの無さが我慢ならなかったのかも知れない。
いわゆる出来すぎであり、欠点のない欠点がこれであった。
( ・ ・ ・ すべて仕組まれている。 )
これが、当時のわたしの偽らざる心境であり、そのように追い込まれ、
そのように仕組まれた <さとり> だと感じたのである。
まるで、ここに追い込めば、必ず <こうなる>、
必ず <このように落ちる> と言った、鮎棚 (やな) に掛かった鮎のように、
或は、落としの名人である手練れの刑事の手にかかったコソ泥のように、
その悟性までもが人為的で因果律的なしがらみの中に根回しされるのだから。
そうなんだ、ここには何かしら作為的な匂いが付きまとう。
嗅覚的体感的な動物的本能が、おれの中で騒ぎ立てるのだ。
何か違う、何かが違うと、おれの自覚が身体全体でその差異を見つめている。
さっさとゲロしちまいな、とばかりに ・ ・ ・ 。