逆説的な言い方ではあるが、人は一度ならずも徹底した理不尽さ、

   過酷な不合理さのなかに身を晒してみるのも、あながち無駄とは言えない。


   有無を言わさず、是非さえもままならぬ事態の中に放り込まれ、

   徹底した抑止や抑圧の弊害のなかに身を置くことによって、

   反応という、恣意的で偶意的なある種の身勝手さから遠のくことで、

   何かしら見えてくるものがあれば、シメタモノである。


   言わば 「あれもダメ」 「これもダメ」 と、徹底した否定に晒されることで、

   ある種の諦念とも断念ともいえる脱落の境涯に身を晒せば、

   中途半端な妥協や選択や選考の迷いに陥り、それこそ、その時ばかりの

   ランダムで無節操な合理やご都合主義を演じて堂々巡りを繰り返すよりも、

   はるかに目出度いある種の仏縁、その <啓示> (破れ) に出会うことが出来る。