≪日常する瞑想≫

   ――― 我、未だ一片の気意 (気位) も執らず。


   これが、<真を求めず、妄を除かず> と言われる現状であり、

   <日常する瞑想> と呼ばれる現実形態であり、現象的事態である。 


   此処には、気位を執らないわたし、気張らない (気負わない) わたしがいる。

   ほとんど力を入れず、力まないわたしがいるのである。

   また、抵抗の機会を担保し留保したまゝの無抵抗なわたしである。


   したがって、これは <心理> ではなく、<感情> でもなく、<境地> でもない。

   これは、日常する ≪瞑想 (メディテーション)≫ であり、 ≪止観≫ であり、

   豊饒な日常する生活、その ≪感覚 (センス)≫ (非心理的事態) である。


   感情は、瞑想の <破れ> であり、感覚の <破綻> であり、

   何よりも <場の破れ> と呼ばれる、非保存な時空である。


   しかし、感覚は場に保存され持続する ≪場の叡智≫ と記述される。

   感覚とは、研ぎ澄まされた感性と自覚の一如であり、相即 (無二) である。

   いわゆる、感性が自覚であり、自覚が感性 (自性) なのである。

   (感性は、自覚の 「性」 であり、自覚は、感性の 「覚」 である。)


   この ≪性覚不二≫ (或は、「覚性の不二」) を悟ることを、

   あるいは、自性の空性、自性の絶対清浄性に気付くことを

   ≪見性≫ と呼んでいる。    (本来清浄)


   いわゆる、この二つが <別物ではない> と、

   純粋な ≪知覚≫ (感覚/即自覚) だと知るのである。