光明主義や光明主義思想を否定するわけではないが、

   それが最終的なゴールではなく、ひとつの通過点であり、

   修行上のメルクマール (目安/めぼし) であり、

   ターニングポイント (折り返し地点) だと知ることである。


   でないと、以前にも話したように、光明主義的な主観的 <聖性> と、

   日常する世間の客観的 <俗相> との二律背反に落ち込んで、

   ニッチもサッチも行かなくなるのだから。


   じつは、ここからが <悟後の修行> の徳目 (還相) で、

   これ以降、光明と言う仏智見に育まれ、うながされながら、

   八正道分修行を中心に世俗社会の中に出て行き、

   芋の子を洗うように、自らを <事上練磨> するのである。


   このようにして、大悟を徹底するのであり、

   忙しくも騒がしい市井のなかで、

   他に比類を見ず、比肩のしようのない、

   <破鏡の事> (戒体発得) を経て、始めて、

   非聖非凡、非聖非俗の ≪了事の凡夫≫ と成り給う。


   ――――  ≪是れ、凡か、聖か。≫ と。



   
   Oyajiの木漏れ日 「聖と俗」  参照
   http://blogs.yahoo.co.jp/kyouoyaji/47891383.html