天命を知っても、天分を行なわなければ、

   天命を知ったことにはならない。

   
   また、たとえ天分を行なったとしても、

   天命を知らなければ、それは不毛の行為であり、

   妄動である。



          *          *          *



   「場の節度」 を立てて説くのが、

   ≪孔儒の教え≫ (ソーシャル・ロー) だとすれば、

   今ひとつのファクターである、

   「場の不思議」 を立てて説くのが、

   ≪釈仏の教え≫ (ナチュラル・オーダー) だと言える。


   一方は、在家の門であり、今一方が出家の門だとしても、

   この両者は、一枚の紙、或は、コインの表裏をなし、

   片面のみを強調し力説しても、あまり意味の有ることではないし、

   何より、紙の意思、コインの情に反する。


   もし人が、≪実在の意思≫ を知らんと欲するならば、

   この表裏を、明確に分別しつつ、別個に取り扱い、

   しかも、歴然と <一つのもの> と了悟することによって、

   始めて、≪活祖意≫ 足り得る。