天命を知っても、天分を行なわなければ、
天命を知ったことにはならない。
また、たとえ天分を行なったとしても、
天命を知らなければ、それは不毛の行為であり、
妄動である。
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「場の節度」 を立てて説くのが、
≪孔儒の教え≫ (ソーシャル・ロー) だとすれば、
今ひとつのファクターである、
「場の不思議」 を立てて説くのが、
≪釈仏の教え≫ (ナチュラル・オーダー) だと言える。
一方は、在家の門であり、今一方が出家の門だとしても、
この両者は、一枚の紙、或は、コインの表裏をなし、
片面のみを強調し力説しても、あまり意味の有ることではないし、
何より、紙の意思、コインの情に反する。
もし人が、≪実在の意思≫ を知らんと欲するならば、
この表裏を、明確に分別しつつ、別個に取り扱い、
しかも、歴然と <一つのもの> と了悟することによって、
始めて、≪活祖意≫ 足り得る。