≪私が私であるとき、此処にはすでに 「私はない」。≫

   と、言った。

   <わたしはわたしを忘れている> ・・・ と。


   一方、

   ≪私が私であるとき、「わたしは不快である」。≫

   と、埴谷は語った。


   
   何れも 「自己言及の問題」 には違いないが、

   そして自己問題について、それぞれの立場で、

   現実的な事態性に言及しているのであるが、

   依然、二人の溝を埋めることは困難である。


   この困難さは、いったい何に由来するのだろう。

   
   一方は、<わたしがわたしで在るとき> と言い、

   今一方は、<わたしがわたしを意識するとき>

   と、言う。   ――――  (即自と対自)


   この二人の間に依然 <わだかまる> のは、意識の問題であり、

   「意識と存在」、或は、「意識と無意識」 の問題であり、

   引いては、「とき」 (時間/時空/位相性) の問題である

   ように思われる。



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