≪私が私であるとき、此処にはすでに 「私はない」。≫
と、言った。
<わたしはわたしを忘れている> ・・・ と。
一方、
≪私が私であるとき、「わたしは不快である」。≫
と、埴谷は語った。
何れも 「自己言及の問題」 には違いないが、
そして自己問題について、それぞれの立場で、
現実的な事態性に言及しているのであるが、
依然、二人の溝を埋めることは困難である。
この困難さは、いったい何に由来するのだろう。
一方は、<わたしがわたしで在るとき> と言い、
今一方は、<わたしがわたしを意識するとき>
と、言う。 ―――― (即自と対自)
この二人の間に依然 <わだかまる> のは、意識の問題であり、
「意識と存在」、或は、「意識と無意識」 の問題であり、
引いては、「とき」 (時間/時空/位相性) の問題である
ように思われる。
* * *