≪不是心仏≫
南泉和尚、因みに僧問うて云く、
「還 (かえ) って人の与 (た) めに説かざる底の法有りや」。
泉云く、「有り」。
僧云く、「如何なるか是れ人の与めに説かざる底の法」。
泉云く、「不是心、不是仏、不是物」。
(南泉和尚にある僧が、「いままでに説かれたことのない法というものが
ありますか」 と尋ねた。 すると南泉和尚は、「ある」 と答えられた。
そこで僧が、 「では、説かれたことのない法とはどういうものですか」
と、尋ねると、 南泉和尚は、 「心でなく、仏でなく、衆生でもないもの」
と、答えられた。)
頌に曰く、
叮嚀 (ていねい) は君徳を損す、 無言真 (まこと) に功有り。
任従 (たと) い滄海は変ずるも、 終 (つい) に君が為に通ぜじ。
頌 (うた) って言う、
語るに落ちて徳もなし、 沈黙こそがお手柄さ。
海が陸地に変わるとも、 このことだけは語るまい。
(『無門関』 二十七 「不是心佛」 西村恵信氏 訳より)
「事の真相」 と言いながらも、私には、今一つ、
どうしても語り切れない重大な心残り (身に覚え) があります。
<語るべきか語らざるべきか> 迷っている問題があるのです。
それは、従来より指摘して来た ≪光明発得≫ の体験であり、
言語道断底の、相対なき 「絶対の経験」 (純粋経験) である。
勿体振っている訳ではありません。
この体験を上手く説明 (弁証) することが出来ないのです。
いわゆる、道理 (因果律) に合わず、
思弁的、論理的に語ることが出来ないのです。
実は、これを 「体験」 と呼び 「経験」 と呼ぶ事さえ、
正当なのかどうか躊躇している。
何故なら、体験 (或は、「経験」) とは、
少なくとも、何らかの 相対的な <関係的行為> であるし、
自己相対的な関係的行為 (相互作用) のなかで感知し感得される
認知であり、認識 (及び、「記憶」) だからである。
しかし、こればかりは、自己相対的な関係的行為でもなければ
相互作用でもなく、むしろ、一切の相互依存的な関係的行為から脱落した、
独処一方的な絶対的行為 (生成) と見なされるからである。
実は、此処のところは、未だ <語り尽くせぬ事態> として、
多くの識者のご教示を賜らなければならないと感じている。