成道会に寄せて



   ≪涅槃心は暁 (あきら) め易く、差別智は明らめ難し。

   差別智を明め得ば、家国自ずから安寧ならん。≫



   ( 悟りの心は明らめやすいが、それを現実生活のなかで

   どう活かすかということは、そう簡単に分かるものではないのだ。

   この日常生活のなかでハタラク智慧さえはっきりすれば、

   家庭も国家もひとり安泰であろう。 )


            
                (『無門関』 「後序」 西村恵信氏 訳)



   
   先の論考は、真諦と俗諦との無二一如 (無相の実相) を唱ったものだが、
   
   菩薩の道と言うものが、涅槃心 (絶対平等性智/悟りの心) をさえ超えて

   今此処に降り立つ者 (還相回向/仏向上) の道だと言うことが分かれば、

   この人がどのような人であるかは、自ずから明らかである。


   この人は、もはや ≪悟り≫ にも滞らず、涅槃寂静の境地にも結滞せず、

   ひとり娑婆 (現実世界/生死する世界) を住処 (すみか) とし、

   当処に ≪差別智≫ (仏慧) を明らめている。


   
   では、この ≪差別智≫ とは何か?

   文字通り読めば、 <差別相を明らめる智慧> と読めるが、

   禅では、このような字義的な分別智はことごとく退けられる。

   
   つまり、この 「差別智」 と呼ばれるものを、

   今此処に身証し、示現し、開示せよ、と迫るのである。


   実は、これこそが、≪菩提心≫ (良知/良心(真心)/人情) であり、

   ≪観音の智慧≫ であり、≪観音の知見≫ でもあって、これをして

   ≪妙観察智≫、或は、それに連動する ≪成所作智≫ と呼んで、

   真諦と俗諦との相即、その無二一如 (絶対無矛盾/無相の実相) を

   実践 (行証/行道) するのである。     (菩薩の行業/人の道)



   ~2008 (後半) 「失われた時を求めて」 参照
   http://blogs.yahoo.co.jp/kyouoyaji/46964665.html