書庫: 龍のすみか 所収
   


   ≪殺仏殺祖の境涯≫


   ――― それにしても、大胆不遜な物言いである。

   
   釈迦弥勒は、尚、他 (かれ/真実の自己) の奴 (奴婢/従僕) だ、と。

   祖仏でさえ、客観であり客体 (即ち、「境」) に過ぎぬと言うのである。

   ・ ・ ・ ( 「禅天魔」 と言われる所為である。 )


   我々の常識から言えば、まったくの 「本末転倒」 である。

   ところが禅家では、我々凡夫の方が 「顚倒妄想」 しているのであり、

   「本末転倒」 しているのは、我々の方だと言うのである。

   

   禅家では、よくこのような物言いをする。

   それどころか、<殺仏殺祖> すら言うのである。

   臨済師言うところの ≪殺仏殺祖の境涯≫ が、是れである。

   
   非心非仏と言われ、非聖非凡と呼ばれるのが是れであり、

   何よりも ≪慧解脱≫ と呼ばれる 「法障滅」 (所知障滅) であり、

   「無明滅」 (惑業苦滅) であり、「破鏡の事」 (百雑砕) であり、

   「聖諦第一義」 (廓然無聖) である。

 
   そして、今此処に当今し、当来しつつ当面する、 (即ち、当然する)

   ≪現今、了々と自明なる自己≫ (自己本来の面目) に契当するのである。


   
   無門師の著語は、その事 (当面の事態) を如実に物語っている。


   「若し、彼をはっきりと見届けることが出来たなら、

   たとえば、街のど真ん中で実の親爺に出会ったようなもので、

   いまさら、それが親爺かどうかなどと他人に聞く必要はない

   であろう」。    

               (岩波文庫 『無門関』 西村恵信 訳 参照)


   
   由って、頌にも曰く、

   
   他 (た) の弓挽くこと莫れ、

   他の馬騎ること莫れ、

   他の非弁ずること莫れ、

   他の事知ること莫れ。

   
   ・ ・ ・ と。