書庫: 龍のすみか 所収
≪法を用いる人≫
――― 南無観自在菩薩
東山演師祖曰く、
「釈迦弥勒は猶お是れ他 (かれ) の奴 (ぬ)。
且 (しばら) く道え、他 (かれ) は阿誰 (あた) ぞ」。
無門、下語して曰く、
「若也 (もし) 他 (かれ) を見得して分暁 (ふんぎょう) ならば、
譬 (たと) えば、
十字街頭に親爺 (しんや) に撞見 (どうけん)するが如くに相い似て、
更に別人に問うて是 (ぜ) と不是と道うことを須 (もち) いず」 と。
(『無門関』 四十五 「他是阿誰」 より)
此処では、相互作用とも世間のしがらみとも呼ばれる、
相対的で相互依存的な相補的連関の現象場に在って、
尚、未だ <境に回換され人惑を受ける人> のことを、
――― つまり、<所知障を被る人> のことを、
≪法に用いられる人≫ と呼んでいる。
法に陥り、法に回換されて、
尚、法に滞る人のことを 「法に用いられる人」 (法縛の人) と言い、
返って、法位に立ち、法を自在に用いて、法位すらも脱却するを、
「法を用いる人」 と為し、≪佛向上の事≫ (超宗越格) としている。
「転法輪」 (初転法輪) と呼ばれ、「転法華」 とも呼ばれる
≪慈悲の出自≫ (転智得識/差別智) が、是れである。 (究竟方便)
≪法を用いる人≫
――― 南無観自在菩薩
東山演師祖曰く、
「釈迦弥勒は猶お是れ他 (かれ) の奴 (ぬ)。
且 (しばら) く道え、他 (かれ) は阿誰 (あた) ぞ」。
無門、下語して曰く、
「若也 (もし) 他 (かれ) を見得して分暁 (ふんぎょう) ならば、
譬 (たと) えば、
十字街頭に親爺 (しんや) に撞見 (どうけん)するが如くに相い似て、
更に別人に問うて是 (ぜ) と不是と道うことを須 (もち) いず」 と。
(『無門関』 四十五 「他是阿誰」 より)
此処では、相互作用とも世間のしがらみとも呼ばれる、
相対的で相互依存的な相補的連関の現象場に在って、
尚、未だ <境に回換され人惑を受ける人> のことを、
――― つまり、<所知障を被る人> のことを、
≪法に用いられる人≫ と呼んでいる。
法に陥り、法に回換されて、
尚、法に滞る人のことを 「法に用いられる人」 (法縛の人) と言い、
返って、法位に立ち、法を自在に用いて、法位すらも脱却するを、
「法を用いる人」 と為し、≪佛向上の事≫ (超宗越格) としている。
「転法輪」 (初転法輪) と呼ばれ、「転法華」 とも呼ばれる
≪慈悲の出自≫ (転智得識/差別智) が、是れである。 (究竟方便)