≪場のふるまい匠 所収
≪禅は思想ではない、それは行 (ぎょう/実践) である≫
――― 禅は、ある意味とても <危険な思想> である。
何故なら、思想 (或は、イデオロギー) そのものを否定し、
思惟や思考の一切を解脱 (脱却) せしめるからである。
≪百尺竿頭 (場の特異点)、さらに一歩を進めよ≫ と。
『無門関』 四十六 「竿頭進歩」 より
石霜和尚云く、「百尺竿頭、如何が歩を進めん」。
又た古徳云く、「百尺竿頭に坐する底の人、
得入すと雖然 (いえど) も未だ真と為さず。
百尺竿頭、須 (すべか) らく歩を進めて十方世界に全身を現ずべし」。
( 石霜和尚が言われた、「百尺竿頭に在るとき、どのようにしてさらに一歩を
進めるか」。 また古徳が言われた、「百尺竿頭に坐り込んでいるような人は、
一応そこまでは行けたとしても、まだそれが真実身体というわけではない。
百尺竿頭からさらに歩を進めて、あらゆる世界において自己の全体を
発露しなくてはならない」。 )
無門曰く、「歩を進め得、身を翻 (ひるがえ) し得ば、
更に何 (いず) れの処を嫌ってか尊 (そん) と称せざる。
是 (かく) の如くなりと然雖 (いえど) も、且 (しばら) く道え、
百尺竿頭、如何が歩を進めん。 嗄 (さ)」。
( 無門は言う、「一歩を進めることができ、世界のただ中に身を現じることが
できたならば、ここは場所がよくないから、尊しとはいえないなどという処が
どうしてあり得よう。そうはいうものの、一体どのようにして百尺竿頭から
歩を進めるのか、言ってみるがいい。 ああ」。 )
頌に曰く、
頂門 (ちょうもん) の眼を瞎却 (かっきゃく) して、
錯 (あやま) って定盤星 (じょうばんじょう) を認む。
身を拌 (す) て能 (よ) く命を捨て、
一盲衆盲を引く。 (光明発得)
頌 (うた) って言う、
頂門の眼を失えば、
無用のものに眼がくらむ。
身を投げ命を捨ててこそ、
衆生を導く人ならん。
≪禅は思想ではない、それは行 (ぎょう/実践) である≫
――― 禅は、ある意味とても <危険な思想> である。
何故なら、思想 (或は、イデオロギー) そのものを否定し、
思惟や思考の一切を解脱 (脱却) せしめるからである。
≪百尺竿頭 (場の特異点)、さらに一歩を進めよ≫ と。
『無門関』 四十六 「竿頭進歩」 より
石霜和尚云く、「百尺竿頭、如何が歩を進めん」。
又た古徳云く、「百尺竿頭に坐する底の人、
得入すと雖然 (いえど) も未だ真と為さず。
百尺竿頭、須 (すべか) らく歩を進めて十方世界に全身を現ずべし」。
( 石霜和尚が言われた、「百尺竿頭に在るとき、どのようにしてさらに一歩を
進めるか」。 また古徳が言われた、「百尺竿頭に坐り込んでいるような人は、
一応そこまでは行けたとしても、まだそれが真実身体というわけではない。
百尺竿頭からさらに歩を進めて、あらゆる世界において自己の全体を
発露しなくてはならない」。 )
無門曰く、「歩を進め得、身を翻 (ひるがえ) し得ば、
更に何 (いず) れの処を嫌ってか尊 (そん) と称せざる。
是 (かく) の如くなりと然雖 (いえど) も、且 (しばら) く道え、
百尺竿頭、如何が歩を進めん。 嗄 (さ)」。
( 無門は言う、「一歩を進めることができ、世界のただ中に身を現じることが
できたならば、ここは場所がよくないから、尊しとはいえないなどという処が
どうしてあり得よう。そうはいうものの、一体どのようにして百尺竿頭から
歩を進めるのか、言ってみるがいい。 ああ」。 )
頌に曰く、
頂門 (ちょうもん) の眼を瞎却 (かっきゃく) して、
錯 (あやま) って定盤星 (じょうばんじょう) を認む。
身を拌 (す) て能 (よ) く命を捨て、
一盲衆盲を引く。 (光明発得)
頌 (うた) って言う、
頂門の眼を失えば、
無用のものに眼がくらむ。
身を投げ命を捨ててこそ、
衆生を導く人ならん。