≪場のふるまい拶 所収
    


   子供の頃から、それらしく振舞うことの自己撞着的な 「擬態性」 と

   「偽装性」 (偽善性/偽悪性) に何となく気付いていた。


   皆と同じであることを強制され心掛けるたびに、

   ( 皆と違うことを恐れながら ・・・ )

   「らしく」 振舞うことの述語的な後付けと、

   巧みな帳尻合わせ (辻褄合わせ) の胡散臭さに。


   行為的な同一事態性を担保するための自明的根拠となり、

   常識とも、習慣や習俗とも呼ばれる修練され蓄積され増幅される

   「経験的自我」、或は 「反応的 (反復的) 自我」 と言う名の

   今一つの 「自明性 (あたりまえ)」。

   
   これを知らずに行うことで、

   ( その意味では平凡な )

   けっして疑う事のない 「能天気」 と 「天真爛漫」 を

   手に入れて来た。

   ――― その自己撞着的な再現性とくり返しのなかで。

   
   また、これを知って行うことで、
   
   通俗的で習慣的な 「わざとらしさ」 や 「こざかしさ」

   或は、意識的で確信犯的な 「あざとさ」 や 「あくどさ」 も

   手にして来たのである。

   ――― この <賊機> (ぶりっ子) と言う名の曲者。



   それらしく振舞うことで、

   いわゆる <マネ> をし、<フリ> をすることで、

   社会的な協調性や道義性を身に付け、

   それを越える <ワザ> さえ磨いてきたのである。


   ところが、このような社会性や協調性を身につける過程で、

   そのように偽善的に振舞うことが 「あたりまえ」 となり、

   「常識」 とも 通俗的な 「通念」 とも成って、

   いつの間にか、自己本来の面目とも言える 「自明的根拠」 までも

   見失ってしまったのである。