≪場のふるまい頃 所 収
≪場の反映≫
前項の補完 (文証) となるかどうか分りませんが、
禅的立場から見れば、(或は、仏教の基本的立場から見れば、)
我々の日常する自我的立場 (個別的な分別的立場) が、
以下のような、各場的な 「場の反映」 (場のモード) と見なされ、
虚妄な 「意識的事態」 (非実在性) とも見なされて、
仮構的な主体的転換と共に、その 「顚倒妄想性」 を指摘する。
『無門関』十二「巌喚主人」の頌に曰く、
学道の人真を識らざるは、只だ従前より識神を認(と)むるが為なり。
無量劫来(ごうらい)生死(しょうじ)の本(もと)、
痴人喚んで本来人(ほんらいにん)と作(な)す。
( 行者が真実識らぬのは、意識に幻惑されるゆえ。
過去より積もる苦の種を、愚かに本来人と呼ぶ。)
(岩波文庫『無門関』西村恵信 訳)
≪場の反映≫
前項の補完 (文証) となるかどうか分りませんが、
禅的立場から見れば、(或は、仏教の基本的立場から見れば、)
我々の日常する自我的立場 (個別的な分別的立場) が、
以下のような、各場的な 「場の反映」 (場のモード) と見なされ、
虚妄な 「意識的事態」 (非実在性) とも見なされて、
仮構的な主体的転換と共に、その 「顚倒妄想性」 を指摘する。
『無門関』十二「巌喚主人」の頌に曰く、
学道の人真を識らざるは、只だ従前より識神を認(と)むるが為なり。
無量劫来(ごうらい)生死(しょうじ)の本(もと)、
痴人喚んで本来人(ほんらいにん)と作(な)す。
( 行者が真実識らぬのは、意識に幻惑されるゆえ。
過去より積もる苦の種を、愚かに本来人と呼ぶ。)
(岩波文庫『無門関』西村恵信 訳)