≪場のふるまい頃 所収
   


   ≪無主体的主体≫


   わたし達は、今此処に了々と自明する自己が、

   余りにも自明了な為に、

   また、余りにも透明で清明な為に

   ついつい、迂闊にも見過ごし見逃してしまうのです。


   これが、<わたし> であり、

   <あなた> であるにも拘わらず、

   
   これが、<わたし> であり、

   <わたし達> であるにも拘わらず、


   途轍もなく清明で自明了であるために、

   把持することも叶わず、把得することも叶わず、

   それを投影することも、自己対称化することも侭ならず

   およそ、お手上げとなって見逃してしまうのです。


   これが、<真空場> と呼ばれる量子的な <重力平衡場> であり、

   およそ、頭もなければ尻尾もない <無一物> と呼ばれる

   無尽蔵な ≪絶対無≫ (無の自己) なのですから。


   そして、いま少し言えば、

   <わたし> と <あなた> (対象)

   <わたし> と <あなた方> (世界)

   とを隔てているのは、

   他ならぬ、この自明了な自己の各場的な <反映> であり、

   その仮構的な <主体化> に他なりません。


   実は、わたし達は、この無主体的主体とも呼ばれる

   透明で清明な ≪霊光≫ (六道の神光) に依って

   射影され投影された <反映> (存在の影) を

   自分自身と認識 (錯覚) してしまったのです。


   したがって、此処には未だ <知> (叡智) と <認識> との間に

   断絶があり、齟齬と乖離があるのです。


                   
                          (一乗法の元で)