≪場のふるまい権 所収
  


   ≪不求仏法≫


   仏法を求めず、

   仏法を追わず、

   只、仏法を用う。


   
   
   ≪『無門関』 九 「大通智勝」≫


   興陽の譲和尚、因みに僧問う、

   「大通智勝仏、十劫坐道場、仏法不現前、不得成仏道の時如何」。

   譲曰く、

   「其の問い甚だ諦当なり」。


   (ある時、興陽の清譲和尚に僧が尋ねた、「大通智勝仏という仏は

   十劫という長い間ずっと道場で坐禅を続けておられるのに、

   いまだもって仏法は現れず、仏道を完成しえないでおられるという

   ことですが、これはいったいどういうことでしょうか」。

   すると清譲和尚が答えて言われた、「なかなか的を射た質問だな」。)


   
   僧曰く、「既に是れ坐道場、甚麼と為てか不得成仏道なる」。

   譲曰く、「伊(かれ)が不成仏なるが為なり」。


   (僧が言った、「道場に坐っているにもかかわらずどうして仏に

   なれないのですか」。 清譲和尚は言われた、「そもそも彼は仏に

   ならないからだ」。)


                  (岩波文庫 『無門関』 西村恵信 訳)



   
   ここまで来て、かっての私は大笑い (可々大笑) したものだが、

   皆さんはいかがでしょうか ・・・。

   
   自明性の現在 (即是道場) と言うものが、
   
   即今即是の現法と言うものが、

   あるいは、現今即是の仏法と言うものが、

   如何なるものか、了解出来たでしょうか。


   余りにも自明了なるがゆえに、かえって見過ごし見逃している

   <迂闊なる自分> に気付いたでしょうか ・・・。