≪場のふるまい権 所収
   


   『自明性の現在』

   ――― 世界の窓は世界の窓自身を知らない。

   
   ( ・・・ 此処に、自己を離れる分あり )


   
   春三月の花の園、

   千古の風貌を顕して

   <露堂々>。

   これ、風骨白眉ならんや

   天上大風ならんや

   返照すれば、

   返ってエデンの東が懐かしい。

   

   ご無沙汰しています。 

   現実的な実際 (自明性の現在) から離れ、

   言葉 (頭脳的反応) だけが上滑りしているのを感じて、

   すこし、お休みしました。


   しばらく実践的に、

   「自明性の現在」 (沈黙の春) に身を置いている。

   日々、自明性の現在の中に身を浸している

   と、言った方が正確かも知れない。


   セット・アップされた、

   その意味では 「条件付けられた」 坐の禅を離れ、

   「動中の禅」 とも 「動中の工夫」 とも言われる

   日常するランダムな生活の中にである。


   
   ≪ 身心と祖仏と別ならざるを知って、当下に無事なるを

   方に得法と名づく ≫       (臨済)


   
   今此処に、 「自覚覚他の現況」 に開かれることを

   「自明性の現在」 と呼んでいる。*

   
   * ≪わたしは世界であり、世界はわたしである≫

   Archives 2006 『存在の叡智』 (那一物) 参照。
   http://blogs.yahoo.co.jp/kyouoyaji/2438610.html



   いわゆる、自覚即覚他の現況 (刹那) の開示であり、

   真地の風光 (威音劫外の春) であり、一超直入如来地である。


   現象場としての 「第一相」 であり、

   臨済師に言う、 「第一句」 的立場である。


   ――― 「長 (とこし) えに憶う 江南三月の裏 (うち)、

   鷓鴣 (しゃこ) 啼 (な) く処 百花香 (かんば) し」 と。**

   

   
   ** 『無門関』 第二十四則 「離却語言」 に曰く。

   
   風穴和尚、因みに僧問う、「語黙離微に渉り、如何にせば通じて不犯なる」。
   
   穴云く、「長えに憶う江南三月の裏、鷓鴣啼く処百花香し」。

 
   ( 風穴和尚は、あるとき僧に、「ことばも沈黙も、所詮は実在の反面しか示すことが
   できないのですが、語っても黙しても実在そのものに通じるにはどうすればよいので
   しょうか」と尋ねられ、「いつも懐しく憶い出すのだが、江南は春三月ともなると、
   鷓鴣が鳴き、百花が咲き乱れるのだ」 という杜甫の詩をもって答えられた。)
                         
                         
                          (岩波文庫『無門関』西村恵信訳 参照)