≪場のふるまい権 所収
   


   『自明性の現在』

   ――― この賢しらなる者を見よ。


   
   わたし達が <世界 (外) に向かって開かれている> と言うこと。

   少なくとも、わたしとは 「世界の窓」 であり、

   「世界の扉」 だと言うこと。

   
   必要となれば、逆観 (内観を含む) も可能だし、

   それを開け放つことも閉じることも、

   出入りすることさえ可能だと言うこと。

   
   そして何よりも、

   すでに、隙間なく間断の無い 「自覚覚他の現況」 に開かれ、

   先験的な 『自明性の現在』 (超歴史的現在) に佇んでいるのである。

   

   かって、<この先験的な自明性に根拠はない> と疑ったばかりに、

   或はまた、<反証不能の自明性は存在の根拠足りえない>

   と、賢しらに主張したばかりに、

   ( 反証不能であるにも拘わらず・・・ )

   自分で自分の始末 (決着) を (自業自得とは言え)

   着けなければならなくなったのである。


   そこでは、

   わたし達は一切の存在し現象するものの前提や根拠を疑い、

   ために、自らの前提である 「存在の根拠」 まで見失って、

   存在の闇を彷徨い歩く 「流浪の民」 となり、

   「彷徨える旅人」 となったのです。
   

   まぎれもなく、

   今此処に産み落とされて来た者であるにも拘わらず、

   長じて、両刃の剣とも言える分別理性にそそのかされ、

   さまざまに分析しつつ分析されて、

   もはや、進むもならず退くも侭ならない 「不可解さ」 と

   「不確定さ」 と 「不安定さ」 とに苛まれて、

   みごとに 「根拠なき者」 或は、 「デラシネ」 と呼ばれる、

   『不信の徒』 (賢しらなる者) となったのです。