≪場のふるまい侠 所収
『我に返る』 (3)
――― 自我的迷妄を脱却して今此処に降り立つ者
≪ 人は皆、観音さんである。≫
それも、観自在な観音さんである。
「虚妄なるもの」 (非在) と 「虚妄ならざるもの」 (存在) とを
善く見分けるがゆえに、今此処に ≪降魔成道≫ を成就させている。
では、何故悟った (目覚めた) 人が迷うのか・・・?
それは、この 「一事」 (一大事の因縁) が信じ切れないばかりに、
迷い、苦しむのである。
< 唯、不自信なるがゆえに >
( 尚、信不及なるがゆえに )
未だ、自信 (確信) が得られず、
この一大事に無自覚 (不覚/不徹底) なるがゆえに、
そのような自分が到底信じられず、
大いに疑心暗鬼し、暗中模索しつつ、
迷い苦しむのである。 (大悟徹底)
< 確認は確信に到らない >
( 確認は確信ではない )
自己確認 (再確認) は、「確信」 (信決定) ではない。
確認は、むしろ自らに対する 「背信行為」 であり、
可逆的な 「逆観的行為」 (負帰還) である。
それは、「不安」 (不自信) の代行であり、
「不信」 (疑心暗鬼/魔) の横行である。
由って、それが不安や不信の代行や代償である限り、
「確信」 (信心/自信) には到らないのである。
必要な時以外は、無闇に <自らの影を追うこと莫れ>
と言ったのは、この事である。 (cf.オルフェの悲劇)
あなたが、その 「不信」 や 「不安」 や 「不満」 を
(今此処でキッパリと) 終わりにしない限り、
この 「堂々巡り」 は続くのであり、
また、それを相手のセイや、
状況 (或は、環境) のセイにしている限り、
際限の無い 「無間地獄」 に陥るのである。
つまり、自分に不信を持つ限り、延々と不信が続くのである。
これが 「自同律の罠」 であり、「自我の桎梏」 (自縛) とも呼ばれる
≪自己トリック≫ (自己欺瞞) である。
『我に返る』 (3)
――― 自我的迷妄を脱却して今此処に降り立つ者
≪ 人は皆、観音さんである。≫
それも、観自在な観音さんである。
「虚妄なるもの」 (非在) と 「虚妄ならざるもの」 (存在) とを
善く見分けるがゆえに、今此処に ≪降魔成道≫ を成就させている。
では、何故悟った (目覚めた) 人が迷うのか・・・?
それは、この 「一事」 (一大事の因縁) が信じ切れないばかりに、
迷い、苦しむのである。
< 唯、不自信なるがゆえに >
( 尚、信不及なるがゆえに )
未だ、自信 (確信) が得られず、
この一大事に無自覚 (不覚/不徹底) なるがゆえに、
そのような自分が到底信じられず、
大いに疑心暗鬼し、暗中模索しつつ、
迷い苦しむのである。 (大悟徹底)
< 確認は確信に到らない >
( 確認は確信ではない )
自己確認 (再確認) は、「確信」 (信決定) ではない。
確認は、むしろ自らに対する 「背信行為」 であり、
可逆的な 「逆観的行為」 (負帰還) である。
それは、「不安」 (不自信) の代行であり、
「不信」 (疑心暗鬼/魔) の横行である。
由って、それが不安や不信の代行や代償である限り、
「確信」 (信心/自信) には到らないのである。
必要な時以外は、無闇に <自らの影を追うこと莫れ>
と言ったのは、この事である。 (cf.オルフェの悲劇)
あなたが、その 「不信」 や 「不安」 や 「不満」 を
(今此処でキッパリと) 終わりにしない限り、
この 「堂々巡り」 は続くのであり、
また、それを相手のセイや、
状況 (或は、環境) のセイにしている限り、
際限の無い 「無間地獄」 に陥るのである。
つまり、自分に不信を持つ限り、延々と不信が続くのである。
これが 「自同律の罠」 であり、「自我の桎梏」 (自縛) とも呼ばれる
≪自己トリック≫ (自己欺瞞) である。