≪場のふるまい侠 所収
『我に返る』 (2)
――― 存在 (もの) から人へ
此処では、「存在しないもの」 の有り様 (虚妄性/迷妄) が、
すでに、善く滅却されていることによって、
「存在するもの」 の有り様 (真実/物の道理) が、
如実に知真 (如実知見) されている。
また、存在 (存在するもの) と 非存在 (存在しないもの) が、
一瞬に見分けられる事によって、一切の分別的迷妄が脱却される。
これを 「邪正を弁ず」 と言い、瞬時に 「仏魔を見分ける」 のである。
また、これを 『後得智』 と言い、
悟後の修行の徳目 (目標) としている。
いわゆる、「清浄世間智」 に目覚めるのであり、
「観音三昧の法」 に立脚するのである。
善く、<虚しいもの> と <虚しからざるもの> とを
見分けることによって・・・
根本無分別智である 「文殊智」 (絶対平等性智/正位) と、
分別智である 「普賢智」 (絶対差別智/偏位) とを一身にたずさえて、
自身 「絶対平等即差別」 の一隻眼 (心眼/中道) * に立つのである。
* 「第三の眼」 とも
――― 儞が一念心自ら能く縛を解いて、随処に解脱す、
此是 (これ) 観音三昧の法なり。 (『臨済録』示衆)
と、言われるように・・・
言うところの 「後得智(菩提心)の発得」 (妙観察知) であり、
「観音の在位」 (定/止) であり、
「観音の知見」 (慧/観) であり、
「観音の動容」 (戒/行) である。
臨済師の言う、
≪一無位の真人≫ * が、是の人である。
* あらゆる各場 (自他) に渡るがゆえに 「無位」 と言い、
まぎれもなく、当所に実在するがゆえに 「一位」 と為す。
『我に返る』 (2)
――― 存在 (もの) から人へ
此処では、「存在しないもの」 の有り様 (虚妄性/迷妄) が、
すでに、善く滅却されていることによって、
「存在するもの」 の有り様 (真実/物の道理) が、
如実に知真 (如実知見) されている。
また、存在 (存在するもの) と 非存在 (存在しないもの) が、
一瞬に見分けられる事によって、一切の分別的迷妄が脱却される。
これを 「邪正を弁ず」 と言い、瞬時に 「仏魔を見分ける」 のである。
また、これを 『後得智』 と言い、
悟後の修行の徳目 (目標) としている。
いわゆる、「清浄世間智」 に目覚めるのであり、
「観音三昧の法」 に立脚するのである。
善く、<虚しいもの> と <虚しからざるもの> とを
見分けることによって・・・
根本無分別智である 「文殊智」 (絶対平等性智/正位) と、
分別智である 「普賢智」 (絶対差別智/偏位) とを一身にたずさえて、
自身 「絶対平等即差別」 の一隻眼 (心眼/中道) * に立つのである。
* 「第三の眼」 とも
――― 儞が一念心自ら能く縛を解いて、随処に解脱す、
此是 (これ) 観音三昧の法なり。 (『臨済録』示衆)
と、言われるように・・・
言うところの 「後得智(菩提心)の発得」 (妙観察知) であり、
「観音の在位」 (定/止) であり、
「観音の知見」 (慧/観) であり、
「観音の動容」 (戒/行) である。
臨済師の言う、
≪一無位の真人≫ * が、是の人である。
* あらゆる各場 (自他) に渡るがゆえに 「無位」 と言い、
まぎれもなく、当所に実在するがゆえに 「一位」 と為す。