≪場のふるまい侠 所収
『我に返る』
――― 坐 (い) ながらに成敗を観る。
( 『十牛図』 「返本還源」 より )
此処では、「存在するもの」 (存在) と
「存在しないもの」 (非存在) との明分が明らかとなる。
「現象するもの」 と 「現象しないもの」 との、
明確な判断 (無分別の分別) が行われている。
いわゆる、バーチャルな現実とリアルな現実との、
明らかな違いが見て取れる。
≪ 在るもののみが在り、無いものは無い ≫ のだと。
したがって、此処には、すでに従来より指摘されるような、
言語ゲーム論的な 「生」 と呼ばれるような一般論的概念や個別的観念はなく、
また、「死」 と呼ばれるような観念的実体や実相がある訳でもなく、
言わば、唯、如実な転変推移する現象形態 (真実) のみが在って、
生死もなければ、不生死 (永生) もないのである。
すでに、<在るもののみが在って> (真実なるもの)
<無いものは無い> (虚妄なるもの) のであるから。
私たちは、このように 「在るもの」 と 「在らぬもの」 (在り得ないもの)
との明分 (差別知) を明らめることによって、
今此処に、一切の 「迷妄」 (虚妄なるもの) を脱却する。
これが、<事象そのものへ> と脱落し、帰還する経緯であり、
<物となって見、物となって考え、物となって行う> ことの真意である。
――― 『涅槃会』 に寄せて
『我に返る』
――― 坐 (い) ながらに成敗を観る。
( 『十牛図』 「返本還源」 より )
此処では、「存在するもの」 (存在) と
「存在しないもの」 (非存在) との明分が明らかとなる。
「現象するもの」 と 「現象しないもの」 との、
明確な判断 (無分別の分別) が行われている。
いわゆる、バーチャルな現実とリアルな現実との、
明らかな違いが見て取れる。
≪ 在るもののみが在り、無いものは無い ≫ のだと。
したがって、此処には、すでに従来より指摘されるような、
言語ゲーム論的な 「生」 と呼ばれるような一般論的概念や個別的観念はなく、
また、「死」 と呼ばれるような観念的実体や実相がある訳でもなく、
言わば、唯、如実な転変推移する現象形態 (真実) のみが在って、
生死もなければ、不生死 (永生) もないのである。
すでに、<在るもののみが在って> (真実なるもの)
<無いものは無い> (虚妄なるもの) のであるから。
私たちは、このように 「在るもの」 と 「在らぬもの」 (在り得ないもの)
との明分 (差別知) を明らめることによって、
今此処に、一切の 「迷妄」 (虚妄なるもの) を脱却する。
これが、<事象そのものへ> と脱落し、帰還する経緯であり、
<物となって見、物となって考え、物となって行う> ことの真意である。
――― 『涅槃会』 に寄せて