≪場のふるまい侠 所収
『不入涅槃』
<正位に証を執るは毒海に堕在する> と言われる。
また、<涅槃心は暁め易く、差別知は明め難し> * とも言われる。
* 「仏界には入り易く、魔界には入り難し」 に同じ。
いずれも、未だ正位に証を執る限り、「但空」 に堕すを言い、
真に怖畏すべき 「解脱の深坑」 (法縛) * と為す。
* 私は、これを 「解脱の陥穽」 (落とし穴) の一つに数えている。
又、これを 「法(真理)を知る者は、法を畏る」 とも言う。
圜悟は、当所に垂示して、
<もし転不得ならば、何の用所かあらん> と言う。
物の役には立たぬ (無用の長物) と言うのである。
この転処 (初転法輪/発菩提心) を得て、
始めて、存在の有無 (「仏魔」、或は「邪正」) の見極めから、
権(力)と実(力)、用(要)と不用(不要)との分別、
すなわち、
「当為」 (為すべきこと) と 「不当為」 (為すべからざること) への
行為的明分 (成所作智/差別智) が、自ずから明らかとなる。
いわゆる、佛知見 (妙観察智) に依る
<止むに止まざる当為の出自> であり、
菩提心 (慈悲/人情) の発露である。
『不入涅槃』
<正位に証を執るは毒海に堕在する> と言われる。
また、<涅槃心は暁め易く、差別知は明め難し> * とも言われる。
* 「仏界には入り易く、魔界には入り難し」 に同じ。
いずれも、未だ正位に証を執る限り、「但空」 に堕すを言い、
真に怖畏すべき 「解脱の深坑」 (法縛) * と為す。
* 私は、これを 「解脱の陥穽」 (落とし穴) の一つに数えている。
又、これを 「法(真理)を知る者は、法を畏る」 とも言う。
圜悟は、当所に垂示して、
<もし転不得ならば、何の用所かあらん> と言う。
物の役には立たぬ (無用の長物) と言うのである。
この転処 (初転法輪/発菩提心) を得て、
始めて、存在の有無 (「仏魔」、或は「邪正」) の見極めから、
権(力)と実(力)、用(要)と不用(不要)との分別、
すなわち、
「当為」 (為すべきこと) と 「不当為」 (為すべからざること) への
行為的明分 (成所作智/差別智) が、自ずから明らかとなる。
いわゆる、佛知見 (妙観察智) に依る
<止むに止まざる当為の出自> であり、
菩提心 (慈悲/人情) の発露である。