≪場のふるまい帰 所収
≪「場の叡智」は、あらゆる各場を自己内外に渡って
自己対称化(相対化/相称化)することはあっても、
決して、自らが自己対称化されることはありません。≫
知の無知 (無知の知) を知る人は少ない。
いわゆる、知の可能性を知る人に比べ、
知の不可知 (不可能性/限界) を知る人は、
案外に少ないのである。
先験的な知の可知、知の可能性を知る人に比べて、
知の無知、知の不可知に言及 (反照) した人は、
存外数えるほどである。
知が、いまだ無知のまゝであるとき、
それは、いまだ <無明> に覆われている。
――― 是れ娘生下にして便ち会するにあらず、
還って是れ体究練磨して、一朝に自ら省す。
(『臨済録』 示衆)
と言われる所以である。
南泉に到っては、知は 「妄覚」 とさえ断言される。
いわゆる、知が無知 (無自覚) のまゝに用いられ、
不可知の雲 (不埒の雲/浮雲) となって彷徨い歩くのである。
≪「場の叡智」は、あらゆる各場を自己内外に渡って
自己対称化(相対化/相称化)することはあっても、
決して、自らが自己対称化されることはありません。≫
知の無知 (無知の知) を知る人は少ない。
いわゆる、知の可能性を知る人に比べ、
知の不可知 (不可能性/限界) を知る人は、
案外に少ないのである。
先験的な知の可知、知の可能性を知る人に比べて、
知の無知、知の不可知に言及 (反照) した人は、
存外数えるほどである。
知が、いまだ無知のまゝであるとき、
それは、いまだ <無明> に覆われている。
――― 是れ娘生下にして便ち会するにあらず、
還って是れ体究練磨して、一朝に自ら省す。
(『臨済録』 示衆)
と言われる所以である。
南泉に到っては、知は 「妄覚」 とさえ断言される。
いわゆる、知が無知 (無自覚) のまゝに用いられ、
不可知の雲 (不埒の雲/浮雲) となって彷徨い歩くのである。