≪何言うとんねん≫ 所収
   


   12月22日(土)   しぐれ、午後より本格的な雨


   今日は、「冬至」 です。

   家でもカボチャを食べ、ゆず風呂に入ります・・・かも


   
   
   この論考には異論が多いと思います。

   古来より、儒仏双方ともにかまびすしく論争し、

   たがいに相容れぬところだから。

   
   一方は、聖人(君子) の道をこころざし、

   今一方は、聖凡(生仏) ともに打却して、

   染浄(聖俗) の二境を脱却するを以って善しとする以上、

   ともに相容れず、他をもって非とするのも無理からぬ道理と思われる。


   しかも、お互いに相手の過程(手の内)を捉えて揚げ足を取るなら、

   真理の道(人の道)も、

   他を以って非となし、自らを以って是となす、

   「是非(自他)の紛糾」 に巻き込まれるのも致し方ないと思われる。


   これが、是非の二見(分別)であり、相克(相対)でもある以上、

   (何れが是非かは知らぬが) 是非ともに戦って、

   互いに喪身失命の避けられぬは必定かと思われる。


   それにしても、

   未だ、自己傾向性とも言うべき人性の 「きらい」 (人我の見) に立って、

   是々非々(アレコレ) を言うは 「青い」 と言い、

   一方、いまだ是非の分別も着かぬようでは稚児にも悖る、

   と言うに到っては、目糞鼻糞という以上に牛馬の糞と

   言うべきである。     ( 牛馬紛々と匂う?)


   この対決、相対分別の <世のならい> と言えども、

   見ようによっては、

   「本覚」(本門)と「始覚」(方便門) の争いのように見えて、

   その実、仏門内に於ける騒動と何ら変わらぬものと承知する。


   この優劣、先後、上下、を争う 「是非論争」 こそ、

   うだつの上がらぬ 「鬼家の活計」 と断ず。

   
   < 表なき裏はなく、裏なき表もない。>

   
   是(おもて)の時は、是(おもて) 一方、

   非(うら)の時は、非(うら) 一方。

   いずれも、

   まごうことなき 「是非」(うらおもて) だと言える。

   嘘だと思うなら、尻拭く故紙に聞いてみよ。


   さながら、転法輪して、

   
   うらをみせ おもてをみせて 散るもみじ    (良寛辞世)

   じゃから・・・。