≪何言うとんねん≫ 所収
   


   陽明先生 (陽明学の開祖/儒者) が出てきたので、

   彼に付いて少しお話します。

   
   勿論、彼は仏教 (禅) を否定しています。

   無為に処する禅など頼むに足らずと。

   いまだ、人情 (良知/人の心) に背を向ける姿勢を

   厳しく断罪するのです。


   彼もまた、一時期、当時の流行である禅に傾倒しています。

   陽明の五溺(?)と呼ばれるものの一つに数えられています。

   手元に文献がないので詳しい話は差し控えますが、

   要するに、彼は、禅 (もしくは、禅仏教) の独善性、

   その <独り善がり> (非社会性) を嫌うのです。


   人のみならず、社会的秩序を重んじる儒教なら

   当然の事と思いますが、

   残念なことに、当時の彼の禅的理解が、

   「それまでのものであった」 と言うことを、

   証しているに過ぎません。  (独覚の限界)


   つまり、彼は自ら為す禅的理解に飽きたらず、

   さらに奥義を極めるべく、

   一人、配流 (左遷) の地に在って、

   七転八倒の日々を送るのですが、

   そこで得た答えが、≪心即理≫ の了悟であり、

   心性と天理の一如だったのです。


   なるほど、これなら人情を外すことは有りません。

   しかし、これでは心の猥雑性 (多様性) とのからみに措いて、

   曖昧さが残るばかりか、返って多大な禍根を残すことに

   なりかねません。

   
   いわゆる、自ら為す心性が天理 (自然の摂理) だとすれば、

   「何をしても善いんだ!」 (自由奔放) となって、

   言うところの <アンチ・キリスト> (異端の徒) を

   大量に輩出することに成るのですから。 *


   * 後に 「陽明学左派」 と呼ばれる異端の徒を輩出する事となる。

    親鸞聖人 「歎異抄」 などにも同様の事態がみられる。



   彼もまた、当然そのことには気付いていて、

   揚句の果てに生まれたのが、

   ≪致良知≫ (良知を致す) だったのです。

   
   私見ですが、

   これは、 ≪天命を知る≫ と同意します。