≪何言うとんねん≫ 所収
   


   歴史的現在(フロント) に立って・・・


   すでに、気付いておられる方もあると思うが、

   わたしの文章には、

   奇妙に「歴史的経緯」の欠落している所がある。


   此処には、いわゆる「時間軸」や「時間矢」と言った

   時系列的な因果関係 (入り組み/文脈) が欠落している。

   
   そればかりでなく、(「それだからこそ」と言うべきか)

   正確な視座の基点となるべき「空間座標」までもが、

   時々刻々相転移(転位)して、

   一向に明確な ≪描像≫ (世界モデル) を描き出せないでいる。


   早い話、此処には、

   すでに「ゲージ場」と言ったものが撥無されており、

   比較対照する「場の尺度」も、

   場の基点となるべき「視座」も「視点」も、

   皆目、「定立化」 出来ないのである。


   無視しているのではない。

   時空を規定し限定する定立的な「視座」や「視点」が、

   すでに撥無されているのである。


   むしろ、(以下のように言うべきだろう)

   此処には、当必然的な先験的自明性 (CPT対称性)の現場 * として

   不断に、間断なく ≪永遠の現在≫ が開示されている・・・と。


   * 完全自同律を開示した「完全対称性の現場」


   それが、どのような経緯をたどり、

   どのような結果を導き出して来たとしても、

   また、これから先どのような結果を及ぼそうとも、

   善きにつけ悪しきにつけ、

   ≪今此処≫ が、まぎれも無い「歴史的現在」であり、

   「歴史的経緯」であり、「歴史的結果」だと、

   自知し自覚しているのである。     (仏果現成)