≪何言うてんねん≫ 所収
私は、眼がショボクなった所為もあるが、
普段から、あまり本を読まない。
( 近頃は、ブログの正確さを期す為に、
時々文証に用いることはあるが・・・)
その代わり、 (・・でもないが)
奥さんが、割と読書家なもんで、
すゝめられて読んだものの中に、
宮部みゆきの 『レベル・セブン』 がある。
いわゆる、或るレベル(自我的な許容量)を越えると
もはや自力では戻って来れなくなる、と言う
「自我的境界」 (自我的な限界領域) を扱った
社会派ミステリーである。
此処では、この身心に渡る <記憶> にまつわるモチーフを用いて、
「往相」(行き)と「還相」(帰り)の問題に関連して、
<或るレベル(限界/次元)を越えると、もはや自力では戻って来れなくなる>
と言う、 ≪解脱の陥穽(落とし穴)≫ について、
今一度、おさらいの意味も込めて記述して置こうと思う。
往相とは、文字通り 「求道者(学ぶ者)の道程」 であり、
還相とは、<そこ> からの帰還を果たし得た者、
すなわち、「成就者(実践する者)の道程」 である。 *
* 以前にも書いたが、
究極的な「生成のレベル」(メタ・言語レベル)では、
往相(行き)が還相(帰り)であり、
還相(向下)も又往相(向上)であるが・・・。 (生死一如)
<そこ> とは、取り合えず ≪浄土≫ (或は「彼岸」) *
として置こう。
* 人によっては、これを <究極> とする人も有るが、
わたしは、これを執らない。
むしろ、わたしはこれを修行上の重要な <ターニング・ポイント>
と見ている。 (仏知見の開示悟入)
この「常寂光土」とも言える ≪光明発得≫ (心解脱)を経て、
尚も、 <そこ> に固執し執着せんとする時、
この人は、≪法我≫ (己心法界/唯心の浄土) とも呼ばれる、
膨張し肥大化した自我(大我)に逢着し、
自身を ≪偉大なる者≫ (もしくは「神」) と詐称し、
僭越するに到る。 (大我の陥穽)
勿論、光明発得の当処は、
<手の舞い足の踏むところを知らず> と言われるように、
感極まった ≪法悦の浄土≫ には違いないが、
返って、この光明土(浄土/彼岸) を知ったばかりに、
≪法障≫ とも呼ばれる ≪所知障≫ を被って、
現実との不調和で不可同な乖離(蹉跌/相克)に見舞われる。
この自己(法我)と現実の乖離は、 *
最後の苦悩、或は、<最後の関門> (悟後の修行) と言うべきで、
此処に、更なる解脱とも言うべき、
≪慧解脱≫ (戒体発得) が自己必然的に求められ、
自己要請されるに到る。
* <浄穢/染浄/聖俗> ニ諦の乖離
言わば、≪法さえも捨てよ≫ (釈尊)
と言われるように・・・。
私は、眼がショボクなった所為もあるが、
普段から、あまり本を読まない。
( 近頃は、ブログの正確さを期す為に、
時々文証に用いることはあるが・・・)
その代わり、 (・・でもないが)
奥さんが、割と読書家なもんで、
すゝめられて読んだものの中に、
宮部みゆきの 『レベル・セブン』 がある。
いわゆる、或るレベル(自我的な許容量)を越えると
もはや自力では戻って来れなくなる、と言う
「自我的境界」 (自我的な限界領域) を扱った
社会派ミステリーである。
此処では、この身心に渡る <記憶> にまつわるモチーフを用いて、
「往相」(行き)と「還相」(帰り)の問題に関連して、
<或るレベル(限界/次元)を越えると、もはや自力では戻って来れなくなる>
と言う、 ≪解脱の陥穽(落とし穴)≫ について、
今一度、おさらいの意味も込めて記述して置こうと思う。
往相とは、文字通り 「求道者(学ぶ者)の道程」 であり、
還相とは、<そこ> からの帰還を果たし得た者、
すなわち、「成就者(実践する者)の道程」 である。 *
* 以前にも書いたが、
究極的な「生成のレベル」(メタ・言語レベル)では、
往相(行き)が還相(帰り)であり、
還相(向下)も又往相(向上)であるが・・・。 (生死一如)
<そこ> とは、取り合えず ≪浄土≫ (或は「彼岸」) *
として置こう。
* 人によっては、これを <究極> とする人も有るが、
わたしは、これを執らない。
むしろ、わたしはこれを修行上の重要な <ターニング・ポイント>
と見ている。 (仏知見の開示悟入)
この「常寂光土」とも言える ≪光明発得≫ (心解脱)を経て、
尚も、 <そこ> に固執し執着せんとする時、
この人は、≪法我≫ (己心法界/唯心の浄土) とも呼ばれる、
膨張し肥大化した自我(大我)に逢着し、
自身を ≪偉大なる者≫ (もしくは「神」) と詐称し、
僭越するに到る。 (大我の陥穽)
勿論、光明発得の当処は、
<手の舞い足の踏むところを知らず> と言われるように、
感極まった ≪法悦の浄土≫ には違いないが、
返って、この光明土(浄土/彼岸) を知ったばかりに、
≪法障≫ とも呼ばれる ≪所知障≫ を被って、
現実との不調和で不可同な乖離(蹉跌/相克)に見舞われる。
この自己(法我)と現実の乖離は、 *
最後の苦悩、或は、<最後の関門> (悟後の修行) と言うべきで、
此処に、更なる解脱とも言うべき、
≪慧解脱≫ (戒体発得) が自己必然的に求められ、
自己要請されるに到る。
* <浄穢/染浄/聖俗> ニ諦の乖離
言わば、≪法さえも捨てよ≫ (釈尊)
と言われるように・・・。