≪何言うてんねん≫ 所収
≪ 正邪(仏魔/虚実)弁ぜずんば、真偽なんぞ分たん ≫
( 廓庵 『十牛図』 「見跡」より )
無に著けば「虚無」(デフレーション・エゴ)に落ち、
有に著けば「大我」(インフレーション・エゴ)に到る。 *
* 無に背けば「大我」に到り、有に背けば「虚無」に落ちる
――― 向背(同と不同/合と離)なければ、如法現前。
< 神(有)か 虚無(無)か > (All or Nothing)
この自己撞着的な因果律(自同律)を見るにつけ、
人はなんとまぁ、有無に渡って天地ほどにも引き裂かれるのか
と、思いを新たにしている。 (相対的観念の陥穽)
仏教では、この二つを 『偏見』 と為し、
特に、「虚無」(全無) に落ちるを <解脱の深坑> (断見) と為し、
「大我」(全有) に到るを 「常見」 としている。
これら、断・常の二見(偏見)を脱却して、
悉くに、 ≪正見≫ * に立つべし、と。
* 人の「叡智」、平等即差別(如是実相)の「絶対知」。
ここでは、
自己対称化したものと (つまり、「ポジティブ・チャージ」したものと)
「自己同一化」(同化/主体化)することを
<ポジティブ・フィードバック> (正帰還/順応) と呼び、
我々の重要な「ふるまい」(機能) の一つと数えているのですが、
逆に言えば、
自己対称化したものと (すなわち、「ネガティブ・チャージ」したものと)
「自己同一化」することを
<ネガティブ・フィードバック> (負帰還/逆対応) とも呼んで、
順逆観する人の対応(ふるまい)に換えている。
また、
「それ」と同化しない(差異化/客体化/対自化する)ことによって、
それとの自己同一化(自己限定化/体制化)をまぬがれるのです。
ここに 「C(Charge)対称性の妙」(C反転の妙) が見られます。
言うところの、「ポジティブ・チャージ」(正応/アクション)と
「ネガティブ・チャージ」(反応/リアクション)と、
「ノー・チャージ」とも言うべき「無記」(パス/スルー/棄権)が
これに相当する。*
* この内、「自我の境界(限界/有限性)」を越えて、もはや自力では戻れない
病理学的様相(自己同一性の破綻)を見せ始めるとき『解脱の陥穽』と呼び、
そのトータルな「統覚的自我の破綻」(自己同一性を含む社会的関係性の破綻)
と見ている。
≪ 正邪(仏魔/虚実)弁ぜずんば、真偽なんぞ分たん ≫
( 廓庵 『十牛図』 「見跡」より )
無に著けば「虚無」(デフレーション・エゴ)に落ち、
有に著けば「大我」(インフレーション・エゴ)に到る。 *
* 無に背けば「大我」に到り、有に背けば「虚無」に落ちる
――― 向背(同と不同/合と離)なければ、如法現前。
< 神(有)か 虚無(無)か > (All or Nothing)
この自己撞着的な因果律(自同律)を見るにつけ、
人はなんとまぁ、有無に渡って天地ほどにも引き裂かれるのか
と、思いを新たにしている。 (相対的観念の陥穽)
仏教では、この二つを 『偏見』 と為し、
特に、「虚無」(全無) に落ちるを <解脱の深坑> (断見) と為し、
「大我」(全有) に到るを 「常見」 としている。
これら、断・常の二見(偏見)を脱却して、
悉くに、 ≪正見≫ * に立つべし、と。
* 人の「叡智」、平等即差別(如是実相)の「絶対知」。
ここでは、
自己対称化したものと (つまり、「ポジティブ・チャージ」したものと)
「自己同一化」(同化/主体化)することを
<ポジティブ・フィードバック> (正帰還/順応) と呼び、
我々の重要な「ふるまい」(機能) の一つと数えているのですが、
逆に言えば、
自己対称化したものと (すなわち、「ネガティブ・チャージ」したものと)
「自己同一化」することを
<ネガティブ・フィードバック> (負帰還/逆対応) とも呼んで、
順逆観する人の対応(ふるまい)に換えている。
また、
「それ」と同化しない(差異化/客体化/対自化する)ことによって、
それとの自己同一化(自己限定化/体制化)をまぬがれるのです。
ここに 「C(Charge)対称性の妙」(C反転の妙) が見られます。
言うところの、「ポジティブ・チャージ」(正応/アクション)と
「ネガティブ・チャージ」(反応/リアクション)と、
「ノー・チャージ」とも言うべき「無記」(パス/スルー/棄権)が
これに相当する。*
* この内、「自我の境界(限界/有限性)」を越えて、もはや自力では戻れない
病理学的様相(自己同一性の破綻)を見せ始めるとき『解脱の陥穽』と呼び、
そのトータルな「統覚的自我の破綻」(自己同一性を含む社会的関係性の破綻)
と見ている。