≪何してんのん≫ 所収



     <いろは歌>


     いろはにほへと ちりぬるを      色は匂へと 散りぬるを
      
     わかよたれそ つねならむ       我が世誰そ 常ならむ
      
     うゐのおくやま けふこえて      有為の奥山 今日越えて
     
     あさきゆめみし ゑひもせす       浅き夢見し 酔ひもせず     


               
                        
   ≪心なき身にも・・・≫

   
   ――― この時、西行は六十九歳であった。

   奥州平泉へ向う旅の途中、相模の国(現在の神奈川県)大磯辺りで

   詠まれた歌だという。


     心なき身にもあはれは知られけり

     鴫たつ沢の秋の夕暮      (西行)   


   当時 (平安末期) とすれば、

   すでに好々爺の域に達していても可笑しくない

   晩節の中に在って、尚、この旅情の詠嘆である。


   前項でもすこし触れたが、

   この歌を、西行の御詠歌と捉えて <歌読み> するのも結構だが、

   西行を一人の出家者として、

   <宗教読み?> することも出来るのではないか

   と、思った次第である。


   つまり、ここに詠まれているのは、

   人間西行の詠嘆であり、人生の哀歓には違いないのだが、

   それ以上に、

   一人の出家者としての境涯を <空即是色> (建立門) に即して、

   ≪還相(転智得識) の境涯≫ を詠んだのではないか ・・・

   
   つまり、「さとり」 などと言う止住し止宿する頑是無さを越えて、

   「出涅槃」(不入涅槃)とも言える「生起次第の因縁」(発菩提心)を

   詠み込んだのではないかと気付いたのである。

   
   感得する「もののあはれ」(性)と「鴫立つ沢の秋の夕暮」(相)との

   感応道交する一如を言の葉に託して、機境相応し機法一体する

   <機境(性相)の一如> を歌い上げたのではないかと。


   すなわち、

   ≪真を求めず、妄を除かず≫ (不求仏法) の現況へと、

   尚、その一歩を進めたのである。


   
   ――― まったく風情のない話で申し訳ありません。