≪何言うとんねん≫ 所収
朝夕、めっきり冷え込んで来ました。
いつの間にか金木犀の香りも消え、
庭の柿の木もすっかり色付き、
葉を落とし始めました ・・・
≪ 自律自戒性の目覚め ≫
――― ここでは、
≪ 自覚が覚他であり、覚他が自覚である。≫
自覚の全分が覚他であり、覚他の全分が自覚である。
いわゆる、自覚内容の全分が、覚他であり、
覚他の全分が、自覚の現況 (内実) となっている。
これが、「他者問題」 (自他不二) とも呼ばれる、
≪ 自覚即覚他・覚他即自覚 ≫ * の不可分な相即であり、
絶対無矛盾な自己同一 (性相一如/心々不異) である。
* 「自燈明即法燈明」 (逆も真) に同じ。
又、ここでは、
「存在的所与」 が、悉く直接無媒介に 「存在的能与」 である。
いわゆる、未だ 「絶対否定」 (即非) を介在させることなく、
直接無媒介に相即 (機境一如/機法一体) している。
場に即して言えば、
存在的所与の全分が、一切の存在的能与 (アクションとリアクション) の
自覚的な ≪可能性の場≫ を開いている。
つまり、
存在的能与 (自覚) の可能性とは、
「未然形」 の謂であり、「可能態」 の謂でもあって、
「C(charge)変換」 (場の破れ) の可能性を担保しているのである。
「反応」 (ネガティブ・チャージ) するもしないも、
「正応」 (ポジティブ・チャージ) するもしないも、
或は 「パス」 するもしないも、 <あなた次第> と言う訳である。
このような 「ゼロの人」 は、 ≪絶対知の人≫ であり、
佛知見 (妙観察智) に開かれた観自在な 『真人』 である。
いわゆる、
地に足の着いた、場の対称性 (CPT対称性) を開示した
「局所対称性の人」 である。
したがって、
この人は、未だ 「否定の人」 でもなければ 「肯定の人」 でもなく、
「疑問の人」 でも 「義(信義)の人」 でもなく、
「虚無の人」 でも 「傍観者」 でもない。
むしろ、覿面に 「如是の実相」 を明らめた 「当事者」 であり、
CPT対称性と言う 「時空」 を開示した 「局所対称性の人」 であり、
如是の実相 (真実の場) を開示した ≪真理(絶対知)の人≫ である。
それは 「無一物中無尽蔵」 の人であり、
けっして 「神」 (全有) でもなければ 「虚無」 (全無) でもない、
言わば、 ≪ゼロ=無限大≫ の人であり、
あらゆる可能性を担保した <なんでも有り> の人である。
同時に、
場の自発的対称性の破れに基づく 「生成」 と 「創造」 の人であり、
何よりも、絶対不可逆的な場の当為 (生成) を生きる
自由にして自在な人なのである。
( 如何なる妄想も想像も加えず、
――― 言わば、何も足さず何も引かず、
如実に観世音しつつ観自在しながら・・・ )
因って、この人は、平凡な 「市井の人」 であり、
善く、自らを自律自戒せしめ自己制御 (セルフ・コントロール) する、
日常生活に支障のない 「生活者」 (了事の凡夫) なのである。
朝夕、めっきり冷え込んで来ました。
いつの間にか金木犀の香りも消え、
庭の柿の木もすっかり色付き、
葉を落とし始めました ・・・
≪ 自律自戒性の目覚め ≫
――― ここでは、
≪ 自覚が覚他であり、覚他が自覚である。≫
自覚の全分が覚他であり、覚他の全分が自覚である。
いわゆる、自覚内容の全分が、覚他であり、
覚他の全分が、自覚の現況 (内実) となっている。
これが、「他者問題」 (自他不二) とも呼ばれる、
≪ 自覚即覚他・覚他即自覚 ≫ * の不可分な相即であり、
絶対無矛盾な自己同一 (性相一如/心々不異) である。
* 「自燈明即法燈明」 (逆も真) に同じ。
又、ここでは、
「存在的所与」 が、悉く直接無媒介に 「存在的能与」 である。
いわゆる、未だ 「絶対否定」 (即非) を介在させることなく、
直接無媒介に相即 (機境一如/機法一体) している。
場に即して言えば、
存在的所与の全分が、一切の存在的能与 (アクションとリアクション) の
自覚的な ≪可能性の場≫ を開いている。
つまり、
存在的能与 (自覚) の可能性とは、
「未然形」 の謂であり、「可能態」 の謂でもあって、
「C(charge)変換」 (場の破れ) の可能性を担保しているのである。
「反応」 (ネガティブ・チャージ) するもしないも、
「正応」 (ポジティブ・チャージ) するもしないも、
或は 「パス」 するもしないも、 <あなた次第> と言う訳である。
このような 「ゼロの人」 は、 ≪絶対知の人≫ であり、
佛知見 (妙観察智) に開かれた観自在な 『真人』 である。
いわゆる、
地に足の着いた、場の対称性 (CPT対称性) を開示した
「局所対称性の人」 である。
したがって、
この人は、未だ 「否定の人」 でもなければ 「肯定の人」 でもなく、
「疑問の人」 でも 「義(信義)の人」 でもなく、
「虚無の人」 でも 「傍観者」 でもない。
むしろ、覿面に 「如是の実相」 を明らめた 「当事者」 であり、
CPT対称性と言う 「時空」 を開示した 「局所対称性の人」 であり、
如是の実相 (真実の場) を開示した ≪真理(絶対知)の人≫ である。
それは 「無一物中無尽蔵」 の人であり、
けっして 「神」 (全有) でもなければ 「虚無」 (全無) でもない、
言わば、 ≪ゼロ=無限大≫ の人であり、
あらゆる可能性を担保した <なんでも有り> の人である。
同時に、
場の自発的対称性の破れに基づく 「生成」 と 「創造」 の人であり、
何よりも、絶対不可逆的な場の当為 (生成) を生きる
自由にして自在な人なのである。
( 如何なる妄想も想像も加えず、
――― 言わば、何も足さず何も引かず、
如実に観世音しつつ観自在しながら・・・ )
因って、この人は、平凡な 「市井の人」 であり、
善く、自らを自律自戒せしめ自己制御 (セルフ・コントロール) する、
日常生活に支障のない 「生活者」 (了事の凡夫) なのである。